律法とイエス
現在の「聖書」は、「旧約聖書(およびその続編)」と「新約聖書」から成っているが、そもそも「旧約聖書」なるものは存在しない。「旧約聖書」と呼ばれているものは、イスラエルの民が編纂した「トーラー(律法)」・「ネビイーム(預言者)」・「ケトゥビーム(諸書)」をキリスト教会が順不同に編纂したものである。
「トーラー」は律法すなわち主なる神が主の民に命じられた法律であり、ネビイームは預言者の書のことであり、ケトゥビームは「その他の書」という意味である。このことを知らないと、それぞれの読み方の重要性と優先順位が分からない。
トーラーは主の民の法律であるから、主の民が守るべき規範である。ネビイームは主なる神が預言者を通して語られた内容であるから、それに忠実に従うべきものである。ケトゥビームは「その他の書」で、トーラーやネビイームを理解するために必要な知識の書ではあるが、人間の手によるものなので、そこに記されている主なる神の言葉(その言葉が真実の言葉である場合に限る)の他は、トーラーやネビイームほどの重要性はない。
ここで注意すべきは、律法には書記が誤って記している部分や、主なる神が命じていないのに人が勝手に書いた部分が含まれているということである。主なる神は、その点について預言者を遣わして修正されている。それゆえ主イエスは、何度も「律法(トーラー)と預言者(ネイビーム)」によらなければ真の律法は分からないことを示しておられる。つまり主イエスが語っておられる「真の律法」は、トーラーとネビイームを併せ読まなければ分からないようになっているのである。主イエスが語っておられる「真の律法」とは、主イエスが解釈された律法ののことであり、「ヤコブの手紙(ヤコブ゙書)」に記されている「自由をもたらす完全な律法」のことに他ならない。
これをキリスト教会のように「聖書は一字一句すべてが神の啓示である」などとしてしまうと、聖書そのものを正しく理解することができなくなり、誤りや矛盾に目をつぶって盲信せざるを得なくなり、そこから盲人の狂信が生まれることになる。
主イエスは、「求めなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・・中略・・・だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7・7〜12)と教えられたが、ここで主イエスが言われている「律法と預言者」とは、トーラーとネビイームのことである。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。」(マタイ5・17)
これも、主イエスはトーラーとネビイームを廃止するために来たのではないと言われているのである。
「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」(マタイ11・13)
これも、すべてのネビイームとトーラーが預言したのはヨハネの時までであるということで、それ以降に預言者が出ないという意味ではない。
ここで注意しておくべき重要な点が、もう一つある。旧約聖書に記されている主なる神の言葉は、それが真に主なる神が語っておられるならばすべて、主イエスご自身の言葉である、ということである。主イエスが神ご自身だと言っているのではない。主イエスは、ヨハネ福音書に記されているとおり、神が初めに創造された言葉であり、その言葉は光であり、いのちである。
この意味がキリスト教会では真に理解されていない。創世記の初めに記されているとおり、神が最初に創造されたもの、それは「光あれ。」であった。その神の初めの言葉と同時に光が「あり」、その光は「いのち」であった。つまり、言葉=光=いのち=主イエスなのである。
モーセに現れた「柴の火」も、実は主イエスである。その火は燃えなかったのだから、火ではなく光なのであり、その火はその名を「わたしはある。」と言われた。その名の意味は、神が「光あれ。」と言われて、そのとおりに「ある。」存在となったので、「わたしはある。」というのが、その名なのである。名は、その存在そのものを示すものであり、実際、主イエスの本当の名は、神が「あれ。」と言われて、あった者。すなわち、「わたしはある。」というのが、その本当の名なのである。それ以外に主イエスを示す本当の名はない。
それゆえに、主イエスご自身が肉体をもって世に来られた際に、ご自身のことを「わたしはある。」(ヨハネ8・25〜29、8・48〜59)と明かされたのである。
このことは、旧約聖書に記されている主なる神の言葉は、主イエスご自身だということを示している。それは、律法も主イエスご自身だということである。つまり、パウロの論はそのことごとくが全くの間違いであり、聖書からパウロの手紙を取り除いてこそ、主イエスの真の教えが理解できる、ということになる。
キリスト教会は、この根本的な事実を正しく理解していないために、主イエスを神と同一視してしまったり、あるいは逆に主イエスを単なる人間と同一視する立場をとったりと、虚しい議論を繰り返してきた。そして最終的には、理解できない主イエスの教えをそっちのけで、使徒にさえ指名されなかった悩めるパウロの手紙を最重要視した教義を創り上げた。そして、権力をかさにきて傲慢にもその空虚な教義を人々に押し付けてきたのである。その教会が、むしろ12使徒につながる主イエスの真の弟子たちを迫害し駆逐してきたのである。そのためにキリスト教会は、重大な欠陥を持ったまま、その欠陥の上に神学を積み重ねてきた。
ユダヤ教で律法(トーラー)・預言者(ネビイーム)・諸書(ケトゥビーム)と呼ばれているものは、イスラエルの民がペルシャに支配されていた時代に編纂され、ペルシャに解放されて帰還してから、現在のような形にまとめられたと推測されている。ただ、それ以前にも、これらはまとめられていないせよ存在し、伝承されてきた。
トーラーについては、さかのぼればバビロニアに滅ぼされる直前の紀元前640年に即位した南ユダ王国のヨシヤ王の時代に、祭司ヒルキヤがソロモン神殿で発見した「律法の巻物」のことが「歴代誌下」に記載されている。
ヨシヤ王は、祭司ヒルキヤが発見した律法の巻物に従って国中の偶像崇拝を廃し、神殿を清め、祭礼を執り行い、国を挙げて「律法の巻物」への回帰を行った。しかし、それも空しくヨシヤ王はメギド(ハルマゲドン)で矢に撃たれて死ぬ。
実は、この祭司ヒルキヤが発見した「律法の巻物」が、書記が偽る筆をもって書いたものであった。祭司ヒルキヤは、預言者エレミヤの父である。エレミヤは、父ヒルキヤが発見したとする「律法の巻物」が、書記が偽る筆をもって書いた偽りであると預言したのである(エレミヤ8・8)。
律法には、出エジプトした民が荒野で神に「焼き尽くす捧げ物」を捧げたことが記されており、ヨシヤ王もそれに従って焼き尽す捧げ物を捧げたのだが、エレミヤは、神はそんなことを命じなかったと預言した(エレミヤ7・22〜24)。また預言者アモスも、出エジプトした民が荒野で神に「焼き尽くす捧げ物」を捧げたことはないと預言している(アモス5・25)。つまりモーセ5書の「出エジプト記」「申命記」「民数記」「レビ記」等に記されている「焼き尽くす捧げ物」に関する規定は、誤りなのである。
もちろん律法のすべてが偽りというわけではない。ただ、真の律法は、モーセ5書に記されているものと全く同じものではないことは確かで、それゆえに「真の律法」を正しく理解することは困難を極める。そこに遣わされたのが、主なる神の他に唯一、正しく「真の律法」を伝えることができる存在、主イエスその方であった。
主イエスがメシヤたる所以は、まさにそこにあるのであり、決して人の手によって十字架に付けられて人の罪を贖わせるために遣わされたのではなかった。
主イエスは、トーラー(律法)とネビイーム(預言者)による真の律法の解釈を世にもたらしてくださった。エデンの園でエバを唆した蛇は、主なる神がアダムに語った言葉の中に少しの偽りを混ぜた。そしてエバも主なる神の言葉を自分なりに少し変えてしまい、それによって神が命じていた、たった一つの戒めを破って神に背き、サタンを選んだ。
エバはそれがいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していたので、自分の意志でその実を取って食べた(創世記3・6)。エバは、神の言葉に少しの偽りを混ぜたサタンの言葉を受け入れて、自らも同じように神の言葉と自分の言葉を混合し、その実を取って食べたのである。
アダムはエバに同情して(愛ではなく)、その実を共に食べて神に背き、アダムに吹き入れられていた神の息(霊、命)は死んで(霊的に死に)、エデンを追放され、苦の人生を獣の皮を着て生きる者となった。
堕落の主犯は蛇(サタン)なのか、人間なのか。人間が神の子であるならば、御使い(天使)は人間に従うべき存在である。エバは蛇の偽りを戒めなければならない立場にあった。アダムもエバが間違ったらそれを戒め、蛇を戒めるべき立場であった。ところが彼らは自ら偽りを選び、サタンに支配される立場に陥ったのである。
主イエスは、神の律法の文字の一点一画ともおろそかにしてはならないと教えられた。主イエスが言われる神の律法は、トーラー(律法)と預言者(ネビイーム)を正しく理解している者による唯一無二の解釈だから、それが正しいことは誰も否定することができない。そして、その唯一無二の正しい律法を受け入れて行う人は、その心に真の律法が刻まれる。これがエレミヤ書31・31〜34に記されている「新しい契約」の本当の意味である。
それを受け入れない人は、それが正しいからこそ受け入れないのであって、それは自分が「まむしの子」であることを自ら証明することになる。なぜならば、正しいと分かって受け入れないことは誰の責任でもなく、自分自身が選択することだからである。世がそれを受け入れないから仕方がない、という人があれば、それは世のせいではなく、自分が神を捨てて世を選択しているということである。
主イエスはまさしくトーラー(律法)と預言者(ネビイーム)を完成させるために来られたのであり、それを受け入れる人の心に刻むために来られたのにほかならない。これが主イエスによる新しい契約である。契約そのものが変わるのではなく、かつては石に刻まれた契約が新たに意志ではなく心に刻まれるのである。主イエスは自ら語られたように、「失われたイエスラエル」に真の律法を心に刻ませるために遣わされたメシヤなのである。
さて、聖書に「律法」という言葉が出てくる場合、律法という言葉はさまざまな意味を持つ。単に文字で書かれた「律法(トーラー)」のことを指す場合もあれば、口伝律法も含めた律法のことを指す場合もある。あるいは、主なる神がご自身の手で書かれたとされる十戒石板のことを指す場合もあれば、天の主なる神の御前にある「真の律法」のことを指す場合もある。主イエスが言われた「真の律法」には一点一画も誤りがない。
かつてモーセの石板に刻まれた律法の、十戒のヘブライ語直訳は下記である。これには書記の誤りはない。
「私は主、あなたをミツライムの地、奴隷の家から導き出した、あなたの神。
(ミツライムはハムの子。ミツライムからエジプト人が出た。鉄の溶鉱炉の意味も持つ。またエジプトはイスラエルを奴隷支配した。エジプトの偶像崇拝を受け継ぐフラムの子らが支配している現代の世もミツライムであり、その支配する世から救い出されることが現代の出エジプトである)
あなたに、私の顔の上に、他の神々はあり得ない。
あなたは、あなたのためにあらゆる肖像画の彫像を作るな。上にある天の中の、また下にある地の、また地の下の水の中の。
あなたはそれらにひれ伏すな。またそれらに仕えさせられるな。なぜなら私は主、あなたの神。エル(神)。ねたむ者。私を憎む者たちには、父祖たちの邪悪を息子たちの3代目の上に、4代目の上にまでも罰する。
しかし私を愛する者たち、すなわち私の戒めを守る者たちには、千代に慈しみを与える。
あなたは、あなたの神、主の名を、虚しく上げるな。なぜなら、主は彼の名を虚しく上げる者を無罪にしない。
安息の日を、それを聖別するために守れ。あなたの神、主があなたに命じたとおりに、6日間あなたは働け。そしてすべてのあなたの仕事を行え。しかし第7の日はあなたの神、主の安息日。あなたと、あなたの息子と、あなたの娘と、あなたの使用人と、あなたの牛とあなたのロバと、すべてのあなたの家畜と、そしてあなたの寄留者は、すべての仕事を行うな。あなたの使用人が、あなたと同様に休むために。
あなたはミツライムの地で奴隷であったが、あなたの神、主がそこから強い手で、また伸ばした腕で、あなたを導き出したことを覚えよ。それゆえ、あなたの神、主が安息の日を行うようにとあなたに命じた。
あなたの父と、あなたの母を、あなたの神、主が、あなたに命じたとおりに敬え。あなたの日々を長くするために、そしてあなたの神、主があなたに与える地の上で良くなるために。
あなたは殺すな(前もって計画された殺人のことで、正当な場合や偶発的な場合のことではない)。
あなたは姦淫するな。
またあなたは盗むな。
またあなたは、あなたの隣人について、虚しい証言を答えるな。
またあなたは、あなたの隣人の妻を欲しがるな。またあなたはあなたの隣人の家を、彼の畑を、また彼の使用人を、彼の牛とロバを、そしてあなたの隣人に属するすべてのものを、欲しがるな。
あなた方は、あなた方の神、主があなた方に命じたとおりに行うために守れ。あなた方は、右に、また左に、それるな。
あなた方の神、主が、あなた方に命じたすべての道を、あなた方は歩け。あなた方が相続する地で、あなた方が生き、あなた方に良く、そして日々を長くするために。
聞け、わが民よ、私たちの神、主は、唯一の主。あなたの心のすべてで、またあなたの魂のすべてで、またあなたの力(能力、激しさ、非常に、最高に)のすべてで、あなたの神、主を、あなたは愛せ。
今日、私があなたに命じるこれらの言葉が、あなたの心の上にあるように。
そしてあなたは、あなたの息子たちに、あなたが家の中で彼らのうちに座るとき、またあなたが歩くときに、あなたが寝るとき、またあなたが起きるときも、道を鋭く語り、彼らを鋭くせよ。
この十戒の他に、細則の律法がある。
これら律法の解釈については「律法と預言者」によって正しく理解することができる。主イエスは、ファリサイ派の律法の専門家から「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と試みられた際に、こう応えられた。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第1の掟である第2も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている。」(マタイ22・34〜40)。
この言葉は、新約聖書の主イエスが新しく語られたことだと誤解されているが、この言葉は律法に記されている。それはモーセが民に語ったもので、申命記10章に記されている。
「イスラエルよ。あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。心の包皮を切り捨てよ。2度とかたくなになってはならない。あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」
ここに明らかなように、主イエスが言われた第1の掟と第2の掟の意味は、主なる神が命じられた主の律法(戒めと掟)を守って幸いを得ることに他ならない。主の律法を守らない者が、主なる神を愛しているつもりの行いや隣人を愛しているつもりの行いをすることではない。
また隣人の定義についても明確である。隣人とは誰のことかについては、主イエスは律法の専門家に問われて、その本質について答えられている。
「『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。”この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。”さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」(ルカ10・30〜37)
キリスト教会では、いわゆる「善きサマリア人の教え」として、これを主イエスの博愛主義を代表するものとして教えているが、主イエスは決して博愛主義者などではない。キリスト教会が無知だったのは、まずサマリア人についてである。当時のユダヤではサマリア人は嫌悪されていた。ただしサマリア人は異邦人でもなければ異教徒でもない。サマリアは、かつてソロモン王の子の代に、王国が北イスラエルと南ユダとに分かれた、その北イスラエルに位置する。南ユダにはユダ族とベニヤミン族との2部族とレビ族の一部が住み、北イスラエルにはそれ以外の10部族とレビ族の一部が住んだ。
北イスラエルを率いたヤロブアムは、ベテルとダンに金の子牛の像を造ったので、南ユダ国はそれを強く非難した。しかし南ユダ国も律法を守らず堕落していった。主なる神は、北イスラエルにも南ユダにも預言者を遣わして彼らを立ち帰らせようとしたが、聞く耳をもたなかった。やがて北イスラエル国はアッシリア帝国に捕囚され、その後、南ユダ国はバビロニアに捕囚された。時が過ぎてペルシャのキュロスが捕囚民を開放してエルサレムに帰還させたが、その際の中心がかつての南ユダ国のユダ族とベニヤミン族とレビ族であった。主イエスが来られた当時のユダヤは、南ユダ国の部族を中心に構成されていたので、彼らは旧北イスラエル国のサマリアを嫌悪していたのである。ちなみにユダヤの人々は、主イエスが住んだガリラヤのことも同様に嫌悪していたことを忘れてはならない。
ヤロブアムが金の子牛の像を造ったからと言って、北イスラエルの住民すべてが偶像崇拝していたわけではない。敬虔な信仰をもっていた人も多くいた。南ユダにもまた同じように、堕落した民もいれば敬虔な民もいた。当時のユダヤの人々が同胞であるサマリア人を非難するのは不当なことであった。主イエスはそのことを指摘されたのである。
そもそも、主イエスは自らを「失われたイスラエル」のところにしか遣わされていないとして、異邦人・異教徒には遣わされていないと断言しておられる(マタイ15・24)。主イエスが遣わされた「失われたイスラエル」はユダヤにもサマリアにもいる。
主イエスがたとえで語られたサマリア人は、主なる神を心を尽くして愛し、隣人を愛している「同胞」に他ならない。彼の「行い」がそれを如実に示しているからである。そして、このサマリア人は異邦人・異教徒ではないのである。主イエスは、主なる神を心を尽くして愛し、隣人を愛している「同胞」こそが隣人であると教えられたのである。同時に主イエスは、熱心に神殿に通って祈っている祭司やレビ人たちが隣人への行いを伴っていないならば、それは隣人でもなければ同胞でもない、とも教えておられる。また主イエスが、質問した律法の専門家に「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われたことは、その律法学者がたとえ話の中の祭司・レビ人と同様に行いを伴わない者であったことを示している。主イエスは質問者に対して、「それを問うているあなたこそ隣人であれ」と諭したのでもある。
善きサマリア人と同様に、主イエスが語られた安息日や食物の汚れのことについても、キリスト教会では根本的なことが理解されていないために、とんでもない解釈を生んでしまっている。主イエスは当時のユダヤの誰よりも忠実に安息日を守られたし、そうするように教えられた。主イエスが安息日を否定している言葉は、一言もない。食物の汚れについても、主イエスは汚れた食物が元々汚れていないなどとは言っていない。汚れたものを食べても身体がそれを浄化するのであって、それを食した者が汚れるのではないと言っているのである。そもそも律法には、汚れた食物のことは記されているが、汚れた食物を食べた人が汚れるとは書かれていない。それなのに当時のユダヤ人の祭司や律法学者は、汚れた食物を食べた人は汚れると教えていたのである。主イエスは律法を否定したのではなく、彼らの間違った解釈を否定したのである。律法の食物規定は、人がそれによって不幸にならず幸せになるための食物規定なのであって、それを食した人が汚れた人間になるなどとは書かれていないのである。