主は言われた 1996


 平成8年(西暦1996年)2月1日、真言宗高野山明覚寺の管長であった私「正覚院義敬」は、名古屋の末寺と一門の門主が起こした事件に関わった疑いがあるとして愛知県警に高野山の本山で逮捕され、捕囚されて名古屋中川署の監獄に収監された。そのいきさつは、次のとおりである。

 平成7年10月30日、私は一門(真言宗覚王院門)の門主である西川義俊に呼び出されて高野山から下山し、西川門主が直に僧侶を指導している鑑定施法院・横浜霊験寺にいた。
 翌10月31日早朝、愛知県警の捜査員らが突然、寺に押し入ってきた。 捜索が始まり、ありとあらゆるものが押収され、捜査員らはしきりに「チャカないか! チャカないか!」と叫びながら、拳銃を探していた。そのとき寺務所の電話が鳴り、別の末寺の僧侶から、名古屋の末寺(鑑定施法院・名古屋満願寺)の僧侶と住職が逮捕されたとの連絡が入った。
 捜査員の一人が寺務所のパソコン・モニターに映っていた西川門主の姿を見つけたが、捜査員らはそれを見て門主が別の寺で説法しているものだと思い込んだらしく、その間に、隣室で説法していた門主は非常階段から外へ逃れた。
 捜査員の一人が「責任者は誰だ!」と叫んだので、私が進み出た。拳銃の捜査なら何かの勘違いだと思ったが、捜査員は「愛知県警の刑事の丹羽だ」と名乗り、「まあ4、5日、待ってろ。あんたを絶対に逮捕しに来てやるから」と捨てゼリフを吐いて、引き上げていった。

 高野山に戻った私は、そこにも捜査が入ったことを知った。私は住居にしていた高野山のアパートに戻った。夕方、テレビのスイッチを入れると各局のニュース番組で、名古屋満願寺の事件を報道していた。報道によって私はようやく事件の概要を知った。 報道によると、10月31日に名古屋満願寺と関係各所に愛知県警の暴力団捜査一課が家宅捜索し、「加持祈祷による詐欺」の容疑で僧侶3名が逮捕され、翌日にも2名が逮捕された。 逮捕容疑は、「効果がないと知りながら加持祈祷で相談者から祈祷料などの名目で金員を騙取した」というものであった。
 これは事実とはかけ離れている、と思った私は、一刻も早く誤解を解かなければと思い、門主に連絡を取ろうとしたが、門主は行方をくらましていて、連絡がつかなかった。
 11月2日か3日頃、西川門主の側近である本覚寺総務本部長・柴田幹雄から連絡が入り、「用件は電話では言えない。会って直接伝える必要がある」と、大阪・梅田のホテルの喫茶室に呼び出された。急いで待ち合わせ場所に行くと、柴田は「門主の命令で、辞任届に署名捺印してほしい。」と言う。私が「本当に門主の命令ですか。」と問いただすと、彼は近くにあった公衆電話から門主に電話をかけて見せた。その様子を見て、私は彼を信用し、辞任届に署名捺印した。
 梅田から高野山のアパートに戻ると、門主の付き人から電話が入り、辞任届の件について確認があった。門主の意向は、「君が辞任する気なら辞任してもよい、ということで、辞任の強制ではない。」とのことであった。私は、辞任を強制されるいわれはないし、容疑は寺にとって身に覚えのないことであるはずなので、辞任の必要がどこにあるのか分からないと伝えた。
 この頃、国会では新しい「宗教法人法」の成立に向けて連日、議論がなされていた。寺の事件は、この宗教法人法の成立に向け、格好の材料とされていた。

 11月13日、逮捕から2週間後に、容疑を否認していた僧侶3名のうち1名が容疑を認めた。それから1週間後の21日、さらに1名が容疑を認めた。最終的に、名古屋満願寺の女性僧侶1名だけが容疑否認のまま、5名全員が起訴された。 起訴状の文面は、「霊能力がないと知りながら祈祷料や供養料などの名目で相談者から金員を騙取した」というものに変わっていた。 加持祈祷の効果の有無を争点にするのはまずいと訂正されたに違いなかった。
 11月27日、明覚寺は法務大臣を相手に提訴した。その翌日、逮捕されていた満願寺僧侶5名は再逮捕され、新たに満願寺関係僧侶2名が逮捕され、門主宅に家宅捜索が入った。
 11月末の深夜、西川門主と付き人たち数人が突然、何の連絡もなく高野山明覚寺に来山した。本覚寺幹部らも続いて来山し、末寺の全住職を招集して会議が開かれることになった。
 急きょ開かれた住職会議で、寺の活動が当局から誤解を受けていること、誤解で僧侶を逮捕したことは宗教迫害に他ならないこと、信教の自由を侵害する国家権力に対して断固として闘っていくことなどが確認されたが、最後に門主がこう締めくくった。

  「一切の責任は逮捕された僧侶にあるのであって、自分にあるのではない。」

 私は耳を疑った。私だけではない。そこに集まっていた住職たちのほとんどが、いっせいに凍りついた顔で門主の顔を見つめた。 住職たちにとって門主は師匠に当たる。弟子は、もとより師匠に責任を負わせようなどと思っていない。むしろ、師匠に責任が及ばないよう、最善を尽くす思いでいる。しかし師匠の方は、弟子の責任を負おうなどとは、はなから思っていなかった。 住職たちは、その日のうちに全員が下山した。
 門主と本覚寺幹部たちはそのまま残り、信徒たちへの対応を連日、協議していた。西川門主は寺の意見を冊子にまとめて信徒に送付するとし、本覚寺管長の櫻井と幹部たちは信徒たちに、「信仰か、それとも国家権力への追随か」の選択を迫る手紙を送付した。
 私は、かねてから筆を進めていた教学本を急いでまとめあげ、発行することになった。
 12月5日、愛知県警が高野山明覚寺に供養状況の捜査に訪れた。西川門主と本覚寺幹部らは下山した。 それを機に、多数の報道陣が高野山に押しかけ始めた。私は連日、報道陣の取材に応じた。
 年が明けて1月11日、満願寺の僧侶3名が追逮捕された。私は門主の自宅(東京都渋谷区)に呼び出された。門主はいよいよ自分が逮捕される可能性を感じていたらしく、こう言った。

  「いまさらと思うかも知れんが、わしは君を、弟か息子のように思ってきた。私の命は前から言っているように、あと半年はもたないだろう。逮捕されるようなことがあったら、間違いなく獄死すると思う。総務本部長は病気の母親を抱えていて、逮捕されるわけにはいかない身の上だ。本覚寺管長も心臓病で、逮捕されたら危ないだろう。君はまだ若い。君にこんなことを言うのは身を引き裂かれる思いだが、ここは若い君に、できれば何とかして欲しい。わしの最期のお願いだ。金も用意するから。」

 罪を犯していないならば、恐れるものなど何もないはずである。私は半ばあきれつつ、言った。

  「そんなこと言わないで下さい。言われなくても、もしもの時は、そんなこと、させませんから。」

 もちろん、金銭は拒絶した。1月下旬、私は高野山のアパートに戻った。本山では主管が中心となって、2月3日から行われる本山最大行事の『星供大祭』の準備が進められていた。
 2月1日、高野山は朝から記録的な大雪に見舞われ、星供大祭に参詣してくる信徒たちの足となる交通の便が心配された。明覚寺にいた私は、愛知県警が来山したとの知らせを受け、また何かの確認だろうかと思った。愛知県警に対して反抗的な姿勢を見せる修行僧たちをいさめ、私の居場所を告げるようにさとした。
 午後3時頃、僧坊に押し入って来た刑事たちが、座っていた私の両脇を乱暴に取り押さえた。が、無抵抗の私に安心したのか、1人の刑事が「愛知県警捜査一課の中山だ」と名を名乗り、私の両脇を押さえていた刑事たちの手をほどかせた。中山刑事がポケットから一枚の紙を取り出して私に示し、言った。

 「正覚院義敬はあんただな。○○時○○分、ここに書いてある容疑で逮捕する。ええな。」

 中山刑事は、別の刑事に、私に手錠をかけるように指示し、手錠がかけられた。中山刑事は言った。

「その僧侶の格好は、まずいな。顔も見えんように、なんかで隠した方がよかろう?」

 私はそれを拒否し、作務衣姿で何も隠さないまま腰縄で縛られ、僧坊の玄関を出された。
 その瞬間、いっせいにフラッシュがたかれた。目の前には数10メートルに渡る道が警官らによって作られ、左右に報道陣のカメラが整然と並べられていた。 警察の車が用意されている場所までの長い道のりを連行され、車に押し入れられる私の目の前にマイクが何本も突きつけられ、レポーターに心境を問われた。

  「真実は法廷で明らかになります。」

 私は答え、車の後部座席に押し入れられた。 車の助手席に座っていた刑事が言った。

  「わしが、中山刑事と一緒にあんたを担当させてもらう久野じゃあ。まあ、よろしゅう頼むわ。」

 運転席には池田刑事がいた。久野刑事は、車に乗り込んだ中山刑事や池田刑事から「係長」と呼ばれていた。
 車が出発した。車の時計は午後4時頃を示していた。
  午後8時頃、車はまず愛知県中署に入ったが、私の身柄は愛知県中川署の代用監獄(いわゆる留置場)に拘束されることになった。その日、門主、私、本覚寺幹部、明覚寺僧侶の併せて計8名が逮捕され、 名古屋市内の警察署内にバラバラに連行されていたこと、私は後に知った。
 中川署に到着し、取調室に連行された私は、部屋に入るなり、いきなり用意された書面に署名捺印するよう強要された。

  「ちょっと待ってください。何を書いてあるか、読ませて下さい。」

 私が言うと、久野刑事は嫌な顔をして書面を見せた。「容疑を認めます」という書面であった。訳の分からないうちに署名捺印していたら、大変なことになるところであった。
 私は、僧侶たちが詐欺などするはずがないと信じていた。 霊を成仏させることについて言えば、真言宗ではそれができると信じているからこそ葬儀をし、法事をしているのである。真言宗の法を修得している僧侶らが、真言宗の法に則って修法していたのである。真言宗の法にそれができないとなれば、真言宗の僧侶が葬儀や法事で受け取る布施は、すべて詐欺となるはずである。
 ところが、高野山真言宗の著名な高僧が、「真言宗の成仏(即身成仏)は理想であって、実際には成仏などできない」と証言していると、刑事がその高僧の供述調書を見せたのである。その供述が事実ならば、高野山真言宗は霊を成仏させられないのに成仏させることができるかのように装って供養名目で金銭を騙取している詐欺教団ということになる。
 私は、その高僧らが自らの著書で、供述とは全く正反対のことを書いていることを知っていたので、そのことを刑事らに話し、署名捺印を拒否した。 久野は言った。

 「こりゃ署名しといた方がええて。後で後悔しても遅かろうが。どぎゃーする? ほんとに、ええんか? 知らんぞ、どうなっても。」

 中山刑事が言った。

 「係長、まぁまぁ・・・。なぁ、これは署名捺印しといた方が、あんたのために、ええ。ほんとに、あんたのために言うとるでのー。な、署名しときぃて。」

 私は「認めません」と答えた。久野は言った。

 「わかった。認めにゃー、と。これで裁判所に行くでな。」

 その後、中山刑事からコンビニ弁当を勧められたが、拒否した。中山刑事と久野刑事は、私に見せびらかしながら弁当を食べ始めた。

  「うまいぞ。食べんか。腹へっとろう?」

 彼らが食事を終えると、私は中川署の代用監獄に放り込まれた。私はその日から断食を始めた。
 逮捕から3日目、久野刑事と中山刑事は、寺の顧問弁護士が差し入れた弁護士選任届を示した。しかし、弁護士解任届に署名捺印するよう、強要した。私が拒否すると、刑事は言った。

  「なんで責任をお前さんに押し付けて甘い汁を吸うた上の奴らをかばうん? お前さんにとっても、それが一番ええことやに。分からんなぁ。弁護士も、お前さんの弁護するのんとちゃう、本覚寺の顧問弁護士で。本覚寺の幹部を釈放させるために、あんたに全部、責任押し付けようとしとるんぞ。よう考えないかん。わしらも本当に悪い奴をぶち込みてゃーからよ。」

 私は、弁護士の方針で十分であった。本覚寺の幹部がすべてを私に背負わせて釈放され、僧侶や信徒たちのために尽力してくれれば、それでよい。だから弁護士を解任しなかった。
 午前9時から深夜にまで及ぶ取調べが連日、続いた。刑事たちは、私が話す内容を捻じ曲げて供述調書を作文し、署名捺印を迫った。

  「あんたが署名せんなら、高野の僧侶たちを逮捕するしかないがや!」

  「わたしが話したとおりの内容の調書なら、いつでも署名捺印します。」

 翌日から検事調べが始まった。中川署の取調室に検事が現れた。山田英夫と名乗る若い検事は、3つ揃えのスーツ、整髪剤で固めたオールバックの髪型で、私の話を聞き、書記官にメモさせていった。
 しばらくすると、「君の話を書いた。サインしてくれるよな。」と言って、ワープロ打ちした供述調書を差し出してきた。サッと目を通すと、確かに私が話した内容が書かれてあったように見えたので、署名した。が、捺印する前に、念のため、もう一度、ゆっくりと調書に目を通してみた。すると一見、私の話をそのまま書いているようでありながら、所々に私が話していないことを、私が話したかのように挿入してあった。私は捺印するのを止めた。山田検事は一瞬、気づかれたか、というような表情を見せ、あわてて調書を引っ込め、そそくさと取調室を出て行った。
 しばらく山田検事は来なくなった。
 1週間ほどした頃、顧問弁護士の1人が接見に来て、言った。

  「門主からの伝言で、断食をやめるように、それと、門主も調書に署名捺印しているので、調書に署名捺印するように、ということでした。実刑をくらっても、せいぜい5年。外のことは万事、心配しないでいいから、ということです。本覚寺の幹部の皆さんが釈放されたら、みんなで、あなたが出てくるまで頑張って、万全の体制で迎えるから、と伝えてくれ、ということでした。」

 この日、弁護士を介して高野山明覚寺本山主管Fから書籍の差し入れがあった。『あとは野となれ』(曽野綾子著)であった。誰かのため、何かのために、と思って無理をするのではなく、「あとは野となれ」という心境で、まっさらな選択をして欲しいという、心遣いだと思った。私はひと晩でこの本を読んだ。読後、門主や本覚寺の幹部、信徒たちのために自らを犠牲にしようとしていた心に、ふと迷いが生まれた。何が本当に人のためになるかは、人間には分からないことではないか。こうして事件が起ったことも、仏の意思なのではないか。もしかしたら、これこそが「大いなる存在」の「慈悲」なのではないか。・・・様々な考えが交錯する中、不思議と透明な心境になっていた。 肩肘を張って、決死の心境で臨もうとしていた自分を、少し突き放して見るようになった。
 翌日、刑事たちに話した。

 「署名捺印しますから、私の話も少しは書いて下さい。納得すれば、署名捺印します。」

 私は早速、法務合同庁舎の山田検事の検事室に連れて行かれ、そこで検事調べが行われた。付き添いは、細江という婦警であった。山田検事は、先日の供述調書を書き直したので、署名捺印して欲しいとのことであった。私は注意深く目を通した。先日の調書よりはマシになっていたが、私が話していないことが散りばめてあったので、山田検事にそのことを問うた。すると山田検事は言った。

  「調書というのは検察官の主観で書くものであって、君の主張を書くものではない。それに、君たちの争点は『信教の自由』だろう? 細かいことはいいじゃないか。」

 ならば、私が話したことを書いた、などと言わなければよい。

 「調書の初めに、『任意このとおり述べた』と書いてあるのは、どうしてですか」
 「任意、君が述べたじゃないか。それを私がこう聞いたと書いているんだ。」
 「検事さんの聞き方がよほどおかしいということですか。検事さんにとっては仕事かも知れませんが、多くの命がかかっているんです。いい加減なことはできません。」
 「署名捺印するまで帰さんからな。どうしてもサインしないんなら、高野山の連中を逮捕してやる。」

 もし高野山の僧侶たちを逮捕したら、私は絶対に許さない。門主や本覚寺・明覚寺幹部の釈放につながるなら署名捺印するが、そうでないなら署名捺印できない。しかも、私が知りもしないことを、私が話したこととして書いてある調書である。その調書を証拠として、僧侶たちが逮捕されるかも知れない。私が、やってもいない犯罪を認めるということは、僧侶たち全員を犯罪者にしてしまうことだ。

 「こんなことは私も検事になって以来、初めてだ。君のために作っている調書なんだ。署名捺印しないということは、裁判官が見たら、犯罪を隠していると、とらえられるんだ。そうなったら不利だろ? 君の主張は裁判で話したらいいんだ。調書と違うことも、裁判で言ったらいいんだ。」

 それでも署名捺印しない私に、山田検事は言った。

  「分かった。だったら、こうしよう。白紙をあげるから君の言い分を書け。君がこの調書にサインしてくれたら、君が書いたものも一緒に裁判所に提出してあげよう。そうしたら、君の言い分と、調書との違いがはっきりして、裁判官によく分かるだろう。」

 私は応じ、白紙に言いたいことを書いた。その上で、調書に署名捺印した。  いったん昼の休憩になり、わたしは検事室から出され、待合室に連行された。私が調書に署名捺印したせいか、細江婦警は機嫌が良かった。細江婦警は、私の隣にピッタリと体をつけて座り、言った。

  「ねえ、管長って、もてたでしょう?」

 私が黙っていると、こう続けた。

  「うちの旦那ね、同じ警察官で、柔道やってるの。でも、うまくいってないんだよね。」

 そのとき、別の容疑者が刑事に連れられて待合室に入ってきた。細江は、あわてて体を離した。午後の取調べは中止となり、留置場に戻った。
 先に逮捕されていた名古屋満願寺関係の僧侶たちは、女性住職を除く全員が罪を認め、執行猶予付きの有罪判決を受け、次々に釈放されていた。
 私の検事調べでは連日、取引が行われて、私が書いた主張文(上申書)と引き換えに、数多くの供述調書の山に署名捺印した。あまりに大量の調書の山で、十分に目を通すことはできなかったが、あまりにもおかしい部分は修正を加えてもらった上で、署名捺印した。 門主と本覚寺幹部を釈放するための趣意も、調書にしてもらい、署名捺印した。 門主は難しいかもしれないが、これで本覚寺幹部は全員、釈放されるだろう。私は満足して、22日間の取調べを終えた。
 平成8年2月23日、門主と私の2人が起訴され、他の6名全員が処分保留で釈放された。門主の釈放はならなかったが、私は満足感に満たされていた。公判で門主をお守りしていくという希望もあった。 起訴状には、公訴事実として次のようなことが書かれてあった。

 「西川義俊は、平成4年3月23日、和歌山県海南市所在の宗教法人明覚寺の代表役員に就任(同5年3月8日辞任)するとともに同寺の管長であったもの、被告人は、同5年3月8日、同法人の代表役員に就任したものであるが、両名は、右宗教法人明覚寺所属の僧侶ら多数とともに、同法人が 愛知県名古屋市中区に系列寺院として開設した鑑定施法院『満願寺』に訪れる相談者から供養料等の名目で金員を騙取しようと企て、同法人が作成した霊能による治癒等を 標榜した悩み事相談の勧誘文書を頒布した上、前記明覚寺所属の僧侶らと共謀の上、前記満願寺において、金員の交付を受けるとともに、株式会社東海銀行上前津支店の満願寺被告人名義普通預金口座に現金を振込入金させて騙取したものである。罪名及び罰条 詐欺」

 起訴状にはまた、西川門主と私について「3月中旬に追起訴の予定」とも記されていた。起訴した検察官は、中屋利洋検事である。
 起訴後も山田による取調べは毎日、続いた。何度も繰り返し同じような調書を作成し、膨大な量の調書を作った。その後、一部分だけ巧妙に言葉を変えた、似たような調書を作成し、「同じようなもんだから、署名して」などと、さりげなく署名捺印をさせようとした。よほど神経を集中させていない限り、ふいに署名捺印してしまうような、そうしたテクニックにかけては右に出るものはないエリートが、頭脳をふりしぼって姑息な策を 弄してくる。無実の人間であっても、いとも簡単に有罪にしてしまう技術を、彼らは持っている。「日本の検察が起訴したら、99%以上は有罪」と言われるのは、実は有罪にする技術、テクニックにおいて世界一なのである。 もちろん、そんな検事ばかりではないだろうが・・・。
 そうは言っても、毎日毎日、山ほど作成する調書の中には、つい見逃してしまって署名捺印してしまった調書も少なからず、あった。こうした調書の中の、わずか1行、わずか数文字が、裁判では証拠として決定的な力を持ってしまうのである。
 
 この起訴後の取り調べの最終段階に至って、私はようやく自分にかけられている容疑の核心部分を知った。
 私にかけられている詐欺の共同共謀正犯の容疑の証拠は、西川が召集した平成6年7月20・21日の本部会議に私が同席していて、そこで詐欺を共謀したということだったのである。
 私はこのことを知った当初は、何のことか理解できなかったし、1年半も前の特定の日付のことを尋ねられても、急に思い出せるものではない。山田検事は、「しらばっくれるな!」と何度も怒鳴ったが、私はどうしても思い出せないでいた。
 すると山田検事が、1枚のメモを見せた。その会議に出席していた1人が書いたメモだという。そこには、会議に出席していた者たちの名前と、出席者の発言内容の要約がメモされていた。そこには、確かに私の名前があった。「午前」と書かれた文字の下に「矢野 先月の報告 来月宗務総長」と書かれていた。そのことで私は、この頃のことをおぼろげながら思い出した。ちょうどこの直前、私は西川から突然、宗務総長に任命されたばかりだった。私はその後、関東別院に出かけていたが、西川から急きょ呼び出されて、この会議に出席したのである。西川からは、「君を宗務総長に任命したことを本部会議で伝えるので、午前中だけ出席して挨拶だけしてもらえないか。それが終わったら、関東の別院に戻ってくれて構わない。」とのことだった。
 そのことを山田検事に告げると、「嘘をつくな!」と怒鳴られた。しかし、メモの下半分に「午後」と書かれた文字の下には、会議に出席していた者の名前と発言内容が記されていたが、私の名前はなかったのである。私は、そのことを告げ、

「やはり私の記憶が正しいんですよ。私は午前中に挨拶だけして退席していて、会議の内容は知りません。」

と山田が差し出したメモの「午後」の部分を指差した。そのメモは、逆に、その日の私が詐欺を共謀していなかったという無実を証明する証拠であった。
 山田検事は、あわててそのメモを引っ込めた。ちなみに後に開かれた公判では、そのメモは検察側から提出されなかった。
 ちなみに私はその会議の後に、千葉の寺院で3ケ月におよぶ「10万枚護摩大行」に入ることになったため、寺の組織図から名前が消えることなったが、検察は私の名前がない組織図だけを意図的に抜き取った組織図を公判に提出したのである。私の無実の証拠を、検察がもみ消したのである。私は検察という組織が、事実を取り調べる組織ではなく、都合の悪い事実は葬り去り、架空の「真実」をでっちあげて国民を陥れている組織だということを、このときはじめて知った。

 山田検事は、続いてこう言った。

「平成6年の5月3日はどこにいた。」 

 そして、何枚か綴られた紙の束の資料を差し出した。

「5月3日の全体会議で君が配って全員に説明したものだろ? 西川も、横浜の住職も、名古屋満願寺の僧侶たちも、皆が証言しているんだ。」

 私は、実はこのときのことは鮮明に記憶していた。私はこのときの全体会議で全員に説明するどころか、出席してさえいなかった。なぜならば4月の末に、祖母が他界したため私は愛媛に帰省していたのである。祖母は、幼くして父母を失った私を育ててくれた。そのことは西川も周知しており、祖母が他界したことを知った西川は、私に一週間の休暇を与え、帰省させていたのである。つまり、証言は嘘であり、私が帰省したことは祖母の通夜・葬儀に出席していた人すべてが知っている事実であった。
 他界した祖母が、私の無実を証明していた。
 山田検事は、その資料も引っ込めた。こうして取り調べは終了した。

 2月1日から3月25日まで取調べが続いた後、4月11日に私は名古屋拘置所に移管された。名古屋拘置所への拘留に当たり、検査官たちの前で素っ裸にされて、尻の穴まで広げて見せるよう指示され、検査を受けた後、収容所の衣服に着替えさせられ、拘置所生活における訓示がなされる。

  「称呼番号329番」

 それが私に付けられた新しい名であった。この日から私はこの番号で呼ばれることになる。部屋はコンクリートで囲まれた3畳ほどの独居房。丸見えのトイレと、小さな窓が1つ(但し鉄格子付き)、小さな卓袱台が食卓(兼)勉強机である。 独居房に入った後、私服を持っている者は私服に着替えることが許される。入浴は、夏期は週に3回、冬季は週に2回。運動は平日の毎日20分ほどで、この時には独居房の外に出られる。ほとんどの収容者は合同で運動するので会話を交わすことも可能であるが、私は通称「鳥カゴ」と呼ばれる金網で囲まれた個別の狭い運動場で、1人だけでの運動であった。会話を交わす相手もいない。 狭い独居房から出られるのは、入浴と運動の他には接見(面会)の時だけで、しかも接見は私にとって唯一の自由な会話の時間なので、接見はありがたい。ただし、私には接見禁止処分が課されていたため、公判が始まるまで弁護士以外の接見は許されなかった。
 私の拘留生活のほとんどの時間は、公判に向けての意見陳述書や上申書の作成に費やされた。今回事件は完全に当局による、真言密教への誤解と曲解に基づくものと信じていた私は、その誤解と曲解を解きさえすれば、容疑はおのずと解けると思っていた。それはもちろん、おめでたい思い込みでしかなかった。
 一方で私は、「もし、誤解や曲解だとしても、なぜ仏はそれを許されたのか。迫害だとしても、なぜ仏はそれを許されたのか。」という問いを、自らに問い続けていた。
 仏とは、真言密教においては仏陀=釈尊のことではない。釈尊を悟りに導き、真理に目覚ましめた大いなる存在、世の創造者にして世の一切を生かしておられる方のことである。

 5月7日、名古屋地方裁判所1号法廷で初公判が開廷された。裁判を受ける被告人たちは、拘置所からバスで連行される。午前の裁判と、午後の裁判のために毎日2度、バスが出る。午前と午後にかけて裁判が続く被告人は、昼の休廷時間にいったんバスで拘置所に戻る。そして拘置所での昼食を済ませて、また午後便の裁判所行きバスで裁判所に向かうのである。
 我々の裁判は、西川門主、私、名古屋満願寺の女性僧侶の計3人が合同での裁判であった。判事(裁判官)は3人の合議制で、裁判長は川原誠。寺側の弁護士は3人であった(実はこの3人は本覚寺の弁護士であって、明覚寺の弁護士ではなかったことが後に発覚する)。
 公判が開廷し、検察官により起訴状が朗読された。その後、弁護人が弁論要旨を朗読した。
 その日の公判後、本覚寺管長の櫻井と本覚寺総務本部長・柴田幹雄が接見に来た。柴田幹雄はその後、2度と私の前に現れることはなかった。
 翌日、高野山明覚寺本山の主管Fと福岡の別院住職が接見に来てくれて、書物を差し入れてくれた。主管はその後、衣服や菓子などを度々、差し入れてくれた。
 5月21日、弟が埼玉からはるばる接見に来てくれた。弟は、私がまさか警察の厄介になるなど考えていなかったと、気遣ってくれた。そして、本覚寺総務本部長から聞いたという話をし始めた。本覚寺総務本部長・柴田幹雄が弟に聞かせた話の内容が、あまりにも事実と異なっていることに、私も、弟も、驚いた。柴田幹雄はすべてを自分の都合の良い作り話にして、弟に聞かせていた。それを知った弟は、思わず「これから殺しに行く。」と口走ったので、私の隣でメモをとっていた係官が驚いた。私は、殺す価値もない男だ、と弟を説得した。接見時間は、あっという間に終わった。 その後、寺の僧侶らが入れ替わり立ち代り、接見に来てくれた。

 5月30日、第2回公判が開廷された。この日、被告人3人それぞれが、弁護士作成による各々の意見陳述書を読み上げた。 私の意見陳述書の内容は、西川門主とその側近である本覚寺総務本部長の柴田幹雄がしていたことを、私がしたことになっていた。この冒頭陳述書を私に読み上げさせることが、弁護士の最大事業だったのだろう。
 私は、彼らがそうしたいのであれば、それでもいいと思った。すべての罪を一人で背負うことができるのなら、本望だった。しかしながら、意見陳述書のあまりにひどい内容に、読み上げながら徐々にあきれてきた。特に、平成5年3月以降は私が教団運営の一切を指導・管理していた、というくだりに至っては、読み上げることがためらわれて、途中でストップしてしまった。我々にかけられている容疑は「平成6年末から平成7年初めにかけて名古屋満願寺に訪れた相談者に対して、霊能もない僧侶が霊能があると偽って金員を騙し取った」との詐欺容疑だが、詐欺の実行犯とされている僧侶らは平成6年に門主が横浜の僧侶養成院で養成した僧侶らであった。僧侶養成院での指導内容は毎日、ビデオテープに録画されており、そのテープは当局に押収されていた。そのテープの中には、門主が僧侶養成院の修行生だけでなく教団の僧侶全員に対して指導・通達している内容も収録されており、押収資料による裏づけ証拠とあいまって、寺は門主が平成8年2月に至るまで一貫して独裁管理・指導していたことを明白にしていた。
 いまさら私が、平成5年3月から教団全体を指導・管理していたなどという嘘の意見陳述書を読み上げても、門主の独裁の事実がどうなるものでもなかった。争点は、宗教行為であったか、詐欺なのか、である。しかし門主は、責任を私にかぶせて自分は逃れられると思ったのだろう。この意見陳述書の内容は、門主の責任逃れを示していた。しかも、門主本人の意見陳述書では、平成5年3月以降は責任者である矢野に寺を任せていたが自分に責任がある、などと、責任を逃れようとしながら、私をかばっているかのように見せるという姑息さであった。

 私が読み辛そうにしていることを察した裁判長から、「意見陳述書をどうするかについて弁護士とよく話し合うように」と言い渡され、公判は休廷し、弁護士接見することになった。この意見陳述書の内容のひどさについて弁護士に確認したところ、門主と柴田の意向だという。結局、私の意見陳述書は保留し、書き直して改めて提出することになった。公判後、私はこのことについて門主に手紙で尋ねた。しかし、門主からの返信は、なかった。

 公判は月2回のペースで開廷された。5月30日、第2回公判が開廷され、検察側証人として名古屋満願寺の元信徒が出廷し、その尋問と証言が午後5時まで続いた。
 6月になってまもなく、西川門主が入院した。私は、門主を絶対に救わなければと決意を新たにし、独房の中で弘法大師・空海と同じ1日3度の修法(金剛界念誦法)を執ることを自らに課した。私はこれまでに何度も断食行や10万枚護摩供の大行など荒行を重ねてきたが、これほど切実な決意で修法を執ったことはなかった。 もちろん法務局の管理のもと、独房の中で行をとることは並大抵のことではない。食事をとらないことすら許されない中、私は看守の目を盗んでは食事を便器に流し続け、便器を何度も詰まらせ、叱責され続けた。頭を剃ったために何人もの看守に取り押さえられ、吊るし上げられた。それでも私は門主のためにひたすら祈った。必死に祈った。
 入院している門主の世話をはじめ裁判のために奔走していた本山主管が面会に来て、門主の手術が成功したと聞かされ、私は大喜びして仏に感謝した。門主は腹部を大きく「人」の字に切っての大手術の果てに一命を取り留めたとのことだった。

 その後、私は「大いなる存在」を求めた。「大いなる存在」とは、真言宗では「大日如来」と呼ばれているビルシャナ(大いなる光)、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教でいう唯一神(創造主)のことである。私は、自分の人生も何もかもすべてを捨てて、一切をその神にゆだねることを覚悟していた。また、私にはそうする責任があった。もし間違いがあったのであれば、それを認め、真実を知ったならば、それを伝える責任があったからである。「間違い」とは必ずしも事件のことではない。伝えてきたこと、もの、教え、してきたこと、その一切である。

 ある日の真昼、私の耳元でささやく声がした。その声は、私の耳元で声を発する度に息吹を吹きかける声で、人間が耳元でささやく声だった。それは私がこれまで体験したことのある霊体験とは明らかに違うもので、私は驚いて、周囲を見渡した。もちろん、独房の中に誰もいるはずがなかった。
 その声は、それでも私の耳元を離れなかった。そして、はっきりと、こう語った。

 「かれらをおそれるな。
  おおわれたものであらわれてこないものはなく、
  かくれているものでしられてこないものはない。
  わたしがはなすことをあかるみでいえ。
  みみにささやくことをいいひろめよ。」

 私は、はじめ驚いたが、この「言葉」は私に恐怖を与えず、むしろ安堵を与えるものであった。とてつもない慈愛が全身に入って体中を満たした。
 しかし同時に、私は何を言い広めればいいのか分からず、悩んでいた。

 8月29日早朝、再び声を聞いた。私はそれをノートに書き留めた。
 
 「あなたは栄光に輝くわが宮をみたことがあるか。あなたは地上のいまの状態をどう思うか。これは無に等しいではないか。勇気を出せ。働け。種はまだ蔵に残っているか。わたしはあなた方と共にいる。わたしの霊があなた方に宿っている。恐れるな。しばらくしてわたしは、いま一度、天と地と人を震う。その後、わが宮の栄光は前の時よりも大きい。あなた方は宮の基を据えた日のことを心にとめよ。第9の月の24日以降のことを思え。わたしはその日からあなた方に恵みを与える。」

 意味がまったく分からなかった。この声と一連の出来事を伝えなければならないと思っても、どう伝えていいのか分からなかった。

 そのとき私に幻が示された。

 私は、突然このことを伝えても、私の頭がおかしくなったと思われるだけだと思った。しかし、主はこれを本山主管に伝えよと言われた。
 私は、このことを手紙に書いて、本山主管に伝えた。

 手紙を読んだ本山主管は、すぐに高野山から名古屋に面会に来た。本山主管は幼少からカトリックの教育を受けてきて真言宗に得度した経緯があった。ガラス越しのその表情は、私の頭がおかしくなったのか、それとも本当にそういうことがあるだろうか、決めかねているようだった。私は、「このことを皆に言い広めてほしい」と伝言した。
 その後、入院中の西川門主を見舞った本山主管は、「西川門主から、弁護士が金の吊り上げを要求してきたが、これ以上は無理だから弁護士を変更せざるを得ないかも知れない」と聞いて、新しい弁護士探しに動き始めた。教団の弁護を引き受けようという弁護士はなかなか見つからない状況の中、主管は今回の事件について新聞紙上で検察に対して問題提起していた元札幌高検検事長で現在は弁護士でもある参議院議員の佐藤道夫氏のもとに飛び込んだ。佐藤氏は新聞紙上で、こう述べていた。

『お金を出してお祈りすれば、御利益がある。出さないと罰が当たる』と説くのは、ほかの宗教もしている。良識と判断力を備えている大人が金を払うのだから、それは払った者の自己責任。その結果、幸せになる人もいるし、だまされたと感じる人もいるだろう。これを詐欺というのなら、ほかの宗教も取り締まらないといけなくなる。基本的に宗教活動の自由の範囲内であり、公権力が介入するべき問題ではなかったと思う。捜査は『信教の自由』を侵している。」

 主管の働きにより、佐藤氏の3人のお弟子さんたちが弁護を引き受けてくれることになり、年明けの1月から弁護団が一新することになった。