主イエスの預言の意味が今、明らかになる


 ここまで読み進んできた読者には、主イエスが「たとえ」で語られた重要な預言の意味が明らかになるであろう。それはマタイ福音書に記されている有名な「毒麦のたとえ」である。主イエスは、イスラエルの大勢の群衆の前で「種を蒔く人のたとえ」について語られた。その後、主イエスはイスラエルの群衆を残して家の中に入ったが、弟子たちが主イエスに「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。主イエスは「毒麦のたとえ」について、次のように答えられた。

「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈入れは世の終わりのことで、刈り入れる天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまづきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13・36〜43)

 世の終わりは、世界中から毒麦を集めて火で焼き、良い麦だけを残すために訪れる。ノアの洪水の時と同じ意味を持つ。注目すべきは、その後に書かれていることである。
 人の子は天使たちを遣わして、つまづきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。「人の子」とは主イエスもしくは再臨のメシヤのことである(再臨の有無は別として)。その「人の子」が、つまづきとなるものすべてと不法を行う者どもを集めるのは、神や主イエスや人の子と無関係の国々から集めるのではない。「自分の国」から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。

 そもそも、「つまづきとなるもの」は、畑(世界)の中で悪魔が支配する異国にあるのではなく、クリスチャンをつまづかせるものなのだから、教会にあるものである。なぜなら、「つまづく」というのは、キリストによって道を歩けるようになった人が、つまづいて転ぶことを言うからである。もともと神と無関係に生きている人は、キリストによって道を歩いていないのだから、つまづくこともない。主イエスは、「つまづきとなるものすべて」は、キリスト教会にあると言っておられるのである。
 また「不法を行う」とは、神の法に反することである。神の法とは何か。真の律法にほかならない。教会が、もし律法に反することを教え、不法を行わせているとしたら、教会は不法を行っていることになる。主イエスは、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一である。」と教えられているが、これは十戒の第一戒と同じである。教会はどうか。また、教会は偶像を崇拝していないか。安息日は守っているか。
 教会は、良い麦とは自分たちのことだと信じている。そして、燃える炉の中に投げ込まれる毒麦は、主イエスを信じていない人たちや異教徒のことだと信じている。ところが主イエスは、そうは言っていない。キリスト教会の中にこそ、「つまづきとなるものすべてと不法を行う者ども」がいるというのである。彼らはまさか自分が燃え盛る炉の中に投げ込まれるとは思っていない。だからこそ、燃え盛る炉の中に投げ込まれるときに、「泣きわめいて歯ぎしりする」のである。

 教会が教えていることを盲信するのではなく、聖書を自分の目でよく読んでみるべきである。教会の教えと、主イエスの教えとが、あまりにも異なっていることに気付くはずである。
 たとえば、主イエスは安息日を破ったことはない。自分で聖書をよく読めば、主イエスは安息日は不要だと教えているのではなく、真に安息日を守るということはどういうことかを教えておられることに気付くはずである。
 主イエスは、弟子たちに偶像を拝ませたこともないし、自分(主イエス)のことを拝することも弟子たちに禁じた。聖霊を拝めとも教えていない。ただ父なる神だけを拝せよと教えられた。
 主イエスは、弟子たちを連れて神が定められた3大祭礼のために主の聖所に参詣した。これも律法に定められていることである。主イエスは、律法を正しく行われたのであり、律法をどのように行うのが正しいかを教えられたのである。主イエスが教え、行ってみせた律法について、律法学者も祭司らも何一つ反論できなかった。
 教会はどうか。主イエスの教えと違って安息日を守っていない。偶像を崇拝し、主イエスの像だと称してそれを拝し、イエスの母マリアの像を造って拝み、「つまづきとなるものすべてと不法を行う者ども」となっている。悪魔が蒔いた毒麦が育って、今や畑(教会)に溢れていないか。

 「ヨハネの黙示録」の冒頭に、主イエスが7つの教会の天使に書き送りをする場面が描かれている。その7つの教会の中にローマ教会は含まれていない。黙示録が書かれた時代には、ローマ教会はキリスト教会の中心的な教会であったにもかかわらず、である。そして、カトリックもプロテスタントも正教会も英国国教会も、そのローマ教会を起源としている。ローマ教会は、天の7燭台の天使が遣わされている7教会には含まれていないのである。この正当でないローマ教会が自らを「正統」と名乗ったのがカトリックである。彼らが自らを正当と名乗るための根拠としたのが、ローマ人でもあったパウロがローマで自らの教えを宣教したことと、ペテロの死骸がそこにあるとしたことであった。
 彼らは、黙示録に記されている7教会は霊的なものを象徴的するもので、実際の地理的な教会のことではないと詭弁を弄するが、霊的なものなら尚更、実存した7教会が記されているのにローマ教会が記されていないのか。彼らはそれを説明することができていない。
 では、ローマ教会以外の7教会は正しいか。黙示録には、黙示録が記された時にすでに、正当な7つの教会のすべてに悪魔によって毒麦が蒔かれていると記されているのである。
 天使が遣わされている正当な7つの教会(エフェソ・スミルナ・ベルガモン・ティアティラ・サルディス・フィラデルフィア・ラオディキア)は、地理的には現在のギリシャ正教会に属する。だが、7教会は現在のギリシャ正教会のことを意味しているのではない。黙示録に記されている7教会は、ローマ教会カトリックによって異端とされて迫害され、徹底的に殲滅させられたからだ。しかし、7教会の信徒らは世界中に散らばり、神は天使と預言者を遣わして、世の終わりの日まで彼らを養われるのである。
 終わりの日に「人の子」は、天使たちを遣わして「つまづきとなるものすべてと不法を行う者ども」を「自分の国」から集めさせる。集められる者たちは、燃え盛る炉に投げ込まれる。

 では、良い麦はどこにあるか。「人の子」が蒔いた種は、12使徒と、7人の女と、その信徒たちの心に植えられて、芽を出し、育ち、世界中に散らばっている。それは毒麦に隠れて容易には見つけ出すことができない。

「来るべき日に、わたしがイスラエル(主の民)の家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ31・33〜34)

 教会で「主を知れ」と教えられる必要がない、とはどういうことか。教えられなくても自分で神を知るからだ、とは、どういうことか。それは神が、預言者を通して、その人自身に語りかけることによって、その人は神を知るからである。真の預言とは、そのような預言である。


 主イエスは「種を蒔く人のたとえ」「毒麦のたとえ」に続いて、最後に「天の国のたとえ」で締めくくられている。

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ13・44〜50)

 この部分は、キリスト教会では信徒に献身を勧める際や、寄進を募る際に引き合いに出される。しかし、このたとえの真意は、そういうことではない。「畑に宝が隠されている」というのは、毒麦で覆われているように見える畑(世界)に、真の教え(宝)が「隠されている」ということで、宝を探している人は毒麦をかき分けて、隠されている宝を見つけ出さなければ、見つけられないのである。
 そして、「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、」というのは、宝を見つけたことを誰かに話すと、それを聞いた盲目者・狂信者はその宝を誰にも見つけ出せないようにしてしまうからである。つまり、クリスチャンが真の教えを見つけ出したならば、教会の盲信者・狂信者はあなたが救われないように足を引っ張るから、そうされないように、そのまま隠しておき、喜びながら自分の家に帰って、持ち物(偶像や、偽りの教義など)を売り払い、自分のうちに取り入れていた偽りの教えを捨てて、すっかり空っぽになって、その隠されていた宝を手に入れなさい、というたとえなのである。

 このたとえは、教会の中だけにかぎらない。聖書の中にも多くの毒麦が蒔かれているが、その中に宝が隠されている。その宝を見つけた人は、そのまま隠しておき、教え込まれていた偽りの教えをすべて一つ残らず捨てて、その宝を手に入れなさい、というのである。
 また、その宝は、その宝を手に入れた人自身のことでもある。それが良い魚にたとえられているのである。教会に属している人で、宝を見つけ出した人は、教会でそのことを公にするのではなく、隠しておいて、偽りの教えを捨てて、偶像などは売り払い、それを手に入れることだ。それが自分が宝になり、良い麦になる方法だということである。
 そうして、真の主の民になる人たちは、神と主イエスと天使たちに導かれながら、世の終わりまで隠されて養われる。

 主イエスは、終わりの日に、イエスの名を名乗る者や偽メシヤ・偽預言者が現れて多くの人を惑わすこと、方々に戦争・地震・飢饉が起こること、憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つことを告げた。そして「人の子」が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々が見ること、人の子が天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた人たちを四方から呼び集める「とき」の兆候について、こう語られた。

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(マルコ13・28〜29、マタイ24・32〜33、ルカ21・29〜31)

 
「いちじく」が何のたとえであるかが分からないと、この言葉の真意は分からない。主イエスはマルコ11章およびマタイ21章で、いちじくの木が実を実らせていないのを見て呪い、翌日そのいちじくの木は根元から枯れていたのを弟子たちは見た。弟子ペテロがそのことを主イエスに告げると、主イエスは「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ちあがって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」と答えられた。
 ペテロが、主イエスが呪ったいちじくの木が枯れたことを告げたのに対して、主イエスの答えはまるで見当違いの答えのように見える。

 この「いちじく」が何を意味するか、ルカは知っていた。その答えは、ルカ福音書13・1〜9にある。いちじく=イスラエルである。主イエスが来られて3年にわたって探したのに、イスラエル(いちじく)は主イエスを迎える実を実らせていなかった。だからイスラエルはイエスの十字架後、西暦70年にローマによって壊滅させられた。
 この箇所を読んでから、もう一度、マルコ11・2〜37を読むと、主イエスが言われた「いちじく」から人の子が戸口まで近づいていることを悟れ、の意味がよく分かる。「いちじく」が枯れていた朝から、主イエスが教えられた人の子が戸口に近づく兆候となる「いちじくのたとえ」は、同じ1日のうちに起きていることなのである。この1日を主イエスと共に過ごした弟子たちには、まざまざとその意味が分かったはずである。
 「終わりの日」に、イスラエルは再建されて、その枝を柔らかくして葉を伸ばす。そして、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」。それから、天地創造の初めから今までなく、今後も決してない程の苦難が来る。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われないが、神は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださった。それからである。偽メシヤや偽預言者が現れるのは。その前のことを言われているのではない。
 憎むべき破壊者が立ってはならない所に立ち、苦難が来てから、偽メシヤや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば選ばれた人たちをも惑わそうとするのである。そのとき、彼らに騙されてはならない。これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい、と主は教えられたのである。

 キリスト教会では、主イエスが語られた、この言葉に続く言葉、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」(マルコ13・32、マタイ24・36)という一節だけを抜き取って、その日、その時は、だれも知らないとイエス様がおっしゃっているのだから、終わりの日について語る者は異端だ、などと教えている教会さえ、ある。それならば、主イエスはどうしてわざわざ「終わりの日」の兆候について教えられたのか。この一節だけを抜き取って、そのようなことを言うのは、この言葉の前に主イエスが「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」と教え、人の子がいつ来るのかを弟子たちに悟らせるために一連のことを語っていることが見えていないのである。つまり、主イエスが「悟りなさい」と言われていることを悟っていないことを、自ら証明している。
 主イエスは明らかに、人の子が来るのはいつのなかを悟らせるために、いちじくの木のたとえを語られた。その上で、「その日、その時は、だれも知らない。」と言われた。その意味は明らかである。主イエスは「その日、その時」はだれも知らないが、「その年」「その月」はだれも知らないとは言われていない。聖書をつぶさに読み、主イエスが語られたことを重ね合わせれば、それが来るのが、どの年代なのか見当がつくように聖書は書かれており、主イエスは教えておられる。そして、それくらいのことは目覚めていなくても理解できるはずだと主イエスは前提された上で、ただし、「その日、その時」はだれも知らない。だから気をつけて、目覚めていなさい。」と念を押されているのである。
 そのことが見えないのは、目を閉じ、眠っているからである。 教会が聖書の中から一節だけを引き抜いて、それを解説してみせる「人間の教え」を、鵜呑みにしてはならない。自分の目で聖書を読むべきである。マルコ13章を自分の目で読めば、誰でも分かることである。その上で、目を覚ましていなさい、と主イエスは教えておられる。どうすれば目を覚ましていることができるか。神はイザヤの預言を通して教えておられる。主の道に歩み、主の教えに聞き従うことによって、神の息が与えられ、多くのことが目に映っても何も見ることのできない目が開かれるのである(イザヤ42章)。そして、主の道とは主イエス御自身であり、主の教えとは主イエスの教えのことである。主イエスは、目覚めていよ、と教えられている。主イエスの道に歩み、主イエスの教えに聞き従えと言われている。