主は言われた 1997


 平成9年(1997年)2月末から3月初めにかけて、幻が私に臨んだ。
 幻の中で私は、陰謀によって捕囚の地にいた。私が捕囚された後、国王から国家運営を任された宰相が、私の署名と印を勝手に押した偽造文書を作成して国中に配布し、それによって民の中の神を信じる者たちを抹殺しようとする計画を練っている幻であった。
 幻の中で私は、陰謀を防ぐために、神を信じていた王妃にそのことを伝えたが、妃は簡単に信用しようとはしなかった。私は3日間の断食をして神に祈り、また心ある者は共に断食して祈るよう手紙を書いて民に伝えた。ある日、2人の役人が王宮に訪れたが、王妃が知恵によって役人から宰相の計画の証拠を手に入れた。妃は信じた。そして、妃の機転によって宰相の計画は未然に防がれ、宰相は国外追放された。

 ちょうどその頃、本山主管が差し入れてくれた『旧約聖書物語』という写真集の中に、よく似た物語の要約が記載されており、私は差し入れられた聖書の中にその物語を探した。
 幻は、旧約聖書の『エステル記』にそっくりであった。しかし、幻はその日だけでは終わらなかった。
 その後も私は幻をみた。先の幻の続きで、王は宰相を追放したが、真の黒幕は王その人であり、王は追及を逃れるために宰相に責任をかぶせた上で国外に逃がし、目先を誤魔化しただけなのであった。ところが、王が宰相を追放したことがきっかけとなって、王と側近が民に隠して行っていた悪事を証明する数々の書類が明るみに出たのである。そして、私はその文書によって捕囚から解放され、無実が明らかにされる、という幻であった。

 この幻をみた後、私は幻の中の王妃が誰のことであるかを理解し、その人にこの幻を伝えることを決めた。そして、すぐに3日間の断食祈祷をし、心ある者たちは共に断食祈祷をするよう、手紙を書いて伝えた。

 断食が明けて間もなく、門主から寺の運営を任されていた本覚寺管長Sから、「文部省の役人から寺に嫌がらせがある。だから高野山明覚寺本山主管を明覚寺代表役員の代理人に任命したい」」との連絡が来た。一見、主管にとって代表役員の代理人というのは名誉ある話であり、寺への嫌がらせを阻止するためにも、私が拒否する理由は見当たらない。本山主管Fも、私の捕囚後に本山を護持する責任感から、これを引き受けようとしていた。しかし、私は主の幻を思い出した。
 すぐに主管を呼び寄せ、幻のことを伝えた。しかし、幻で示されたとおり、主管はにわかには信じようとはしなかった。
 主管が本山に帰ると、机の上に文部省の役人の名刺が置いてあった。留守中に、文部省の役人が本山を訪れたのであった。主管は名刺の連絡先に電話し、用件を尋ねた。すると、捕囚されているはずの私の名で印鑑を押してあるワープロ打ちの文書が文部省に届き、役人は、捕囚されている私がどうやってワープロを打ち、印鑑を押して、文書を提出したのかと疑問をもって、本山を訪れたということであった。
 寺の代表印は主任弁護士に預けていたが、その印鑑は私の指示がない限り絶対に誰にも使用させないという約束であった。
 その文書は、本覚寺管長Sが明覚寺代表役員である私の名をかたり、印鑑を勝手に押印して提出したもので、文面は、私が末寺を寺から切り離すとしたものであった。つまりSは、私の名をかたった偽造文書で末寺を切り離し、自身がその支配権を奪い、末寺に属する者すべてを支配下に置こうとしたのであった。しかもSは用意周到に、「主管が一門の乗っ取りを企てている」と吹聴していた。もしFが、Sの口車に乗って私の代理人として文書に署名していたら、この文書はFの乗っ取りを証明する証拠として利用されていたであろう。
 私は、事の次第を門主に伝えた。門主は、「Sの一任でやったことだ。」と言い、Sを追放した。(実は形だけの追放劇であって、実際はそうではなかったことが後に発覚する)
 主管は幻の実現に驚嘆した。これ以外にも、主管の身辺に数々の奇跡が現れた。
 
 本覚寺管長Sがいなくなった東京寺務所の、Sの机から、鍵が見つかった。総務担当者が、どこの鍵かと探してみたところ、文書保管ロッカーの鍵であることが分かった。ロッカーの中から重要書類らしきものを発見した総務担当者は私に、その書類を処分していいものかどうかを尋ねてきた。私は、書類を主管のもとに届けるよう指示し、主管は書類を確認した。
 書類の中から、私が捕囚されて以降に私の名と印を使った文書が発見され、それも含めて文書が整理されて私のもとに届けられた。そして、私の師であり寺の門主であった西川が側近の本覚寺総務本部長に命じて作成させ、私の名前を勝手に使い印を押して役所に提出させていた偽造文書が数多く見つかった。中には、私に億単位の借金を負わせる書類も見つかった。私の名前と印を勝手に使って銀行口座を開設し、寺の信徒にはその口座に振り込ませた上、その口座から門主と本覚寺総務本部長が管理する別の口座へと資金移動していることも分かった。これによって私に容疑が着せられ、私は逮捕されたのである。

 「声」の主は、「主が明らかにされたこれらのことを記して裁判所に提出せよ。」と私に命じた。
 「わたしはおまえに、わたしの水を注いだ。おまえの手にわたしは彼らを渡した。彼らはおまえの噂を聞いて震え、おまえのために苦しむであろう。わたしの民は彼らのゆえに常に心に平安がない。あなたはわが民のために悪しき主君の家を打たなければならない。そうすることによってわたしは、彼とその家が流した血を彼とその家に報いる。彼の全家は滅びる。彼らに属する者はことごとくわたしが断ち、悪しき主君の妻イザベルを葬る者さえいなくなるであろう。」

 「声」の主が言う意味は理解した。しかし私は、師である門主に刃を向けることができなかった。私は長い間、悩み、彼らがしてきたことを知った元僧侶や信徒たちにも、「君君たらざるとも臣臣たらざるべからず」と抑えていた。
 しかし門主は善を悪で報いることしかできなかった。彼は弟子が裁かれている富山の法廷に出廷することを拒み、それでも法廷に立たざるを得なくなると、法廷では「私は知らない。引退し、還俗していましたので。責任は未熟な僧侶にある。」と自身の責任逃避と、弟子への責任転嫁に終始した(もちろん門主は引退したことも、還俗したこともない)。同じく法廷で証言に立った本覚寺管長Sも、門主と同じであった。門主と本覚寺管長は、僧侶たちに「逮捕されてはいけないから裁判を傍聴に来てはいけない」と裁判の傍聴を禁止していたため、僧侶たちはこうした法廷での証言を知らなかったし、誰かからそれを聞いても信じようとはしなかった。門主がそんなことを言うはずはない、仮にもし言ったとしても、何か深い理由があってのことだ、と僧侶も信徒も思っていた。
 門主はまた、私に隠して、一切を私に責任転嫁した陳述書を弁護士に作成させ、裁判所に提出していた。裁判所はこれを受理しなかったが、後に形式を代えて再び提出していた。
 この頃、弁護士との接見(面会)で門主の主張と、私の主張との間に、ズレが生じ始めていた。門主が、自分の責任を完全に私と僧侶に転嫁するために「自分は平成6年3月に引退、還俗していた」という架空の物語を作り上げ、それを弁護士に教育し、信じた弁護士がこの架空の物語を法廷で主張しようと言うのである。
 私はまだ門主を打つ決意ができないでいたが、いくらなんでも門主の作り話は無謀であった。門主が逮捕されるまで僧侶を指導し続けていたことは明らかで、それを証明するビデオや書類も数多く押収されていた。新しく弁護することになった弁護士たちは何も知らず白紙の状態なので簡単に門主の作り話を信じたが、これから調べていけば事実を知っていく。そのとき、法廷ではすべてが崩れてしまう。
 門主が弁護士を替えたかった本当の理由も、ここにあったのだ。事実を知りすぎている寺の顧問弁護士では、まずかったのである。門主は、この作り話を法廷で主張させるために弁護士を替えたかったのである。
 門主と弁護士は、この作り話を私に押し付けるために接見するようになった。私が話す事実と食い違うときには、門主の作り話に沿って法廷で証言するよう強要してきた。しかし、そんな嘘はすぐに破綻することは目に見えていた。私は、「法廷で嘘を言う必要はない。詐欺などしていないのだから事実を証明すればいい。」と弁護士に主張した。
 やがて門主と弁護士は、私が気が狂った、長期拘留のために病気になった、と僧侶・信徒らに言いふらし始めた。
 私に面会に来る者は誰もいなくなった。

 孤独の中で、「声」の主は私に言った。
 「その時代に誰が知っていたか。彼は汚泥の中から育つ蓮華のように育った。彼には見るべきものはなく、威厳もなく、人々に慕われる美しさもなかった。彼はわたしの言葉を説き広めたが、人々に侮られて捨てられ、悲しみのうちにあり、病を知っていた。彼は人々に顔を覆って忌み嫌われる者のように侮られた。人々は彼を尊ばなかった。しかし彼は、人々の病を負い、そのとがを担ったのだ。だが人々は思った。彼は神に打たれたのだと。彼には暴虐も偽りの舌もなかったが、その座は悪しき者と共に設けられ、彼は悪しき者と並んだ。しかも彼がそうなることは御旨であり、彼は自らの苦によって光をみて満足した。義なる子は人々の不義をを負い、多くの人々を義となす。それゆえわたしは彼に大いなる栄光を分かち取らせるのだ。」

 私は、むさぼるように聖書を読み、そして祈った。真言宗の修法はやめ、聖書に書いてあるように、祈った。
 私は事件の真相を明らかにすることを決断した。私が最終的に決意を固めたのは、「声」から旧約聖書にあるイスラエルの王サウルとダビデの物語を読むようにとうながされて、それを読み、そこに記されているサウルの言動がまるっきり門主の言動と同じだったからである。

 「声」の主は、私にこう言った。
 「非道な虚言家と化したサタンは、語ったが、相手に少しも怪しまれなかった。なぜなら、人間にも天使にも偽善を見破ることはできないからだ。つまり、この偽善こそ神のみを除く誰の目にも見えず、神の黙認によって天と地を横行闊歩する最大の悪であるからだ。彼の姿、彼の態度は、まさに威風堂々として他を圧し、その姿からは、まだ本来の光輝が失われてはいなかったし、堕ちたりとはいえ、まだ大天使の面影がさしていた。神から受けた電撃の傷痕が深く刻み込まれ、懊悩の色がその頬に、いや、不屈の勇気と、復讐の機をうかがう陰険な誇りを内に秘めたその眉の下にも、それが漂っていた。」

 人は、いつの時代も真の救済者を侮り、カリスマ性を装った偽善で世を誘導する悪魔を救済者だと仰ぎ見てきた。しかし人がそうであっても、神はなお、その現実の中で御旨を果たして来られた。人間には偽の救済者の虚言は見破れなくても、神はそれをご存じで、使者たちにそれを教える。そして神の使者たちは、彼らの騙し惑わす策略や悪巧みの風に吹きまわされることなく、真実を明らかにしてきた。

 神は、今回事件についても真実を明らかにされた。マスコミは「霊能がないのにマニュアルに沿って霊能者を装った即席僧侶たちによる詐欺事件」と報道されていたが、事件の真相はそうではなかった。平成6年7月に、門主がそれまでの寺を別院にして私に任せ、自身は新たに千葉明覚寺を開設し、そこで独自に開発した「供養料発生システム」にのっとって僧侶を即席に育成し、マニュアルに沿って実行させたことが詐欺容疑に当たるとされて事件化されたのであった。詐欺容疑の核心は門主が作成した「供養料発生システム」にあったのである。私はその存在を知らなかった。
 門主は千葉明覚寺で開発した「供養料発生システム」を、横浜・大阪・名古屋に展開し、鑑定施法院グループを独自に作って自らそれを指揮した。私と別院の僧侶・信徒たちは、「供養料発生システム」の存在をまったく知らなかった。ところが、警察も検察もマスコミも同一のグループが同一のことをしていたと見ていたのである。
 門主が独自に開発・実行した「供養料発生システム」は、横浜霊験寺・名古屋満願寺・大阪大運寺・大阪開運寺で実行されたものであり、別院とは無関係であった。別院の僧侶たちは「供養料発生システム」を全く知らなかった。つまり、別院の僧侶・信徒らには、まったく無関係の事件だったのである。
 ところが、門主は自身の責任を逃れるために、責任は各寺の住職たちにあると言って責任転嫁した。さらに門主は、これは宗教迫害だと言って責任逃れをし、末寺の住職たちは真実を知らないまま、門主に巻き込まれたのである。何も知らない別院の僧侶・信徒たちは、門主の作り話をうのみにし、言いなりになるしかなかった。
 
 事件の最大の核心部分が、門主が開発・実行した「供養料発生システム」にある以上、門主自身が、それが詐欺でないことを証明しなければ逮捕された僧侶たちの無実は証明されない。ところが「供養料発生システム」を開発・実行した当の本人である門主は、自身の責任を逃れるために問題点をすり替え、自分は引退していて何も知らないと言って、刑事裁判でも逃げ、民事裁判でも逃げている。これでは僧侶たちは浮かばれない。信徒たちも何も知らないで宗教迫害だと信じ込まされ、何も知らないで門主のためにと裁判を支えているのである。
 出てきた資料によって事実を知り、その証拠をつかんだ私がこのことを明らかにしなければ、僧侶・信徒たちは何も知らないまま門主とその側近たちに利用され続けることになる。私は、事の次第をすべて「上申書」に書き記し始めた。