キリスト教の創始者パウロ


 タルソスのサウロ(サウル)は、ローマ人であると同時にヘブライ人(ベニヤミン族でキシュの子)であり、ヘロデの縁者であると共にファリサイ派であった。ファリサイ派はギリシャのアンティオコス・エピファネスによるヘレニズム強制に反発した敬虔派(ハシディーム)を起源としながらも、当時はローマとヘロデ王に逆らわず、ローマにもヘロデ王にもユダヤにも都合の良い迎合主義となっていた。
 ルカがローマ帝国の高官テオフィロに献上した『使徒言行録』によれば、サウルは主イエスの弟子ステファノの石打ちの刑の後もなお、主イエスの弟子や信徒らを脅迫し、殺そうと意気込んで、ヘロデ神殿の祭司長の所へ行き、ダマスコにあるユダヤの諸会堂あてに手紙を出すよう求めた。それは、主イエスに従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、連行するためであった。ところがサウロはダマスカスへ向かう途中、地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞き、その声の主はイエスであったという。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。同行した者たちも何も見ていない。サウロは3日間、目が見えなかったが、ダマスコのアナニヤによって、目からウロコのようなものが落ち、目が見えるようになったという。サウロはダマスコで宣教したが、受け入れられず、サウロの弟子たちが夜の間に彼を連れ出して逃がした。サウロはエルサレムに行って主イエスの仲間に加わろうとしたが、誰も彼を主イエスの弟子だとは信じなかった。バルナバがサウロを使徒たちに紹介したが、サウロはここでも受け入れられず、故郷タルソスへ出発した。その後、バルナバがサウロを探しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れて来た。バルナバとサウロはキプロス島に向けて船出した。ここではサウロはパウロとも呼ばれていたという。パウロとバルナバはここでも追い出され、イコニオンやリストラに入ったが追い出されて、アンティオキアに戻った。その後、パウロはバルナバと別れて各地を転々とするが、エルサレムに戻り、エルサレムで主イエスの弟子や信徒らを率いていたヤコブから律法を守っていないことを指摘された。パウロはエルサレムで、エジプト人と間違えられてローマの千人隊長に捕えられ、自分はローマ市民であると主張し、望み通りローマへと連行された(パウロが生まれたタルソスの住民は100年程前にマルクス・アントニウスによりローマの市民権を持つことが許されていた)。

 パウロの劇的な回心物語について書いているのはルカであるが、パウロ自身はイエスを見て目が見えなくなった話など、ひとことも書いていない。パウロ自身は、復活したイエスを自分自身で目撃したと繰り返し主張しているが、同行した者は何も見ていないとルカは書いている。パウロは自らを使徒と称し、主イエスを見たと主張したが、主イエスの12使徒は誰もパウロに同調しなかった。パウロを称賛していたルカでさえ、パウロを使徒とは呼んでいない。主イエスはイスラエルの12部族を意味する「12使徒」を選んだが、パウロはその中に入っておらず、福音書のいずれもパウロを使徒とは認めていない。
 パウロは使徒たちについて、「彼らはアブラハムの子孫なのか。私もそうです。キリストに仕える者なのか。私もそうです。気が変になったように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。」(コリントU 11・22〜23)と主張し、自分が12使徒よりもはるかに優れていると自己主張している。また、主イエスの3大弟子であるヤコブ・ペトロ・ヨハネを「柱と目される主だった人たち」と遠まわしにばかにし(ガラテヤ12・9)、「この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、私にはどうでもよいことです」(ガラテヤ2・6)とまで軽蔑している。パウロによれば、主イエスは12弟子には何も語らず、パウロにだけ語ると言う。
 主イエスの弟子や信徒らは誰もパウロを認めないが、パウロは自分を12使徒よりも偉い者だと主張している。このパウロを信奉しているのがキリスト教であり、パウロはキリスト教会の創始者なのである。
 主イエスは律法を廃止するためではなく、完成するために来たのだと主張した。主イエスは律法を拒絶するどころか、「殺すな」と命じている律法に「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と補完し、「姦淫するな」には「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも」と補完した。主イエスは、ファリサイ派や律法学者たちと律法の解釈について論じたことはあっても、律法を否定したことは一度もない。それどころか主イエスは、律法の中の最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教えてはならないと警告した。
 ところがパウロは、生前のイエスの教えにはまったく関心を示していない。それどころか主イエスの教えとは全く正反対のことを教えている。たとえば主イエスは、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。」(マタイ7・21)と教えられたが、パウロは「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ10・13)と言っている。しかも、それがあたかも主の教えであるかのように装うために「」付きの引用という形で手紙に書いている。聖書に通じていない人は、パウロの手紙にはすっかり騙されてしまう。

 パウロは、主イエスがどんな人物であったか、何を教えたかについて知らず、知ろうともしていない。パウロは主イエスについて、12使徒からも、彼を知っていたかもしれない他の誰からも何も教えてもらったことがないと繰り返し豪語している。パウロが宣教したのは主イエスの教えではなく、彼が聞いた「声」から直接に受け取ったと主張するパウロ自身の教えであった。
 しかしパウロの教えは、主イエスの12使徒やその信徒らには受け入れられなかった。それどころか当初はパウロの信奉者であった者たちも離反していった。パウロは自分の信奉者たちに対して、12使徒たちの教えに耳を貸さずパウロの教えを信じるよう何度も何度も懇願し、自分の教えに反する教えを教える者は12使徒たちであれ御使いであれ呪っている。「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたち(パウロとパウロの信奉者)があなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(ガラテヤ1・8-9)。さらにパウロは「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(コリントT 11・1)と、自分だけに従うことを強要した。偽キリストがするように、イエスに倣えとは言わず、自分に倣えと言ったのである。だからキリスト教会は、イエスに倣わず、パウロに倣っている。

 ローマに連行された後のパウロは、そこでやっと自分の教えを受け入れてくれる異邦人たちと出会う。パウロはローマでは自宅軟禁状態であったが、ヘロデ党でファリサイ派でもあったためローマの官憲からは強い干渉を受けないで宣教することが許された。これは先にローマに入っていたペトロと異なり、パウロの特権であった。ローマではパウロよりも先にペトロが主イエスの教えを伝えていたが、そこにパウロが自らの教えを宣教し始めたのである。かつて、あちこちで騒動が起こったように、ローマの信徒たちの間でも騒動が起こった。
 もともとパウロが連行される10年ほど前から、ローマでは12使徒に従う信徒たち(主にユダヤ人)とパウロに従う者たち(主にローマ人)とが対立していて、パウロ派は勢力を伸ばそうと活動を強めていた。
 ローマはパウロにとって願ってもない土地であった。パウロはローマで自分の教えを信奉する異邦人たちには受け入れられたが、12使徒に従う信徒らには受け入れられなかった。そこでパウロは彼らとはいっさい縁を切り、自分の教えを受け入れる異邦人にしか宣教しないことを決意し、自らを「異邦人のために遣わされた宣教者」と宣言し、ローマにパウロのキリスト教集団が出来上がっていくことになる。
 パウロがその後どうなったかの記録は聖書にはない。ちなみに、パウロがローマの大火の際に十字架に掛けられたというのは俗説である。ちょうど、この時期にローマ皇帝ネロの有名な「ローマ大火事件」が起こった。「ネロは新しく都を造るために放火した」という噂がローマ中に広がったため(この噂が事実であったことは後に数々の資料から証明されている)、ネロはその風評をもみ消すため、キリスト教徒を犯人としてデッチ上げ、反ローマと放火の罪を被せて処刑した。これが後に、キリスト教会によって、教会への大迫害と宣伝されることになる。
 ところが実際には、迫害されたのはローマのユダヤ人を中心とするイエス信徒のグループであった。つまりペトロに付き従っていた人々である。彼らはパウロのグループと違って律法を守っていたため、ユダヤ教の新興分派とみなされていた。49年に第4代ローマ皇帝クラウディウスが首都から追放したのも「キリストの扇動で騒動を起こすユダヤ人」に限定されていたことが記録に残っている。このクラウディウスの甥が第5代ローマ皇帝ネロである。
 パウロがローマに入って間もなくのA.D.62年にヤコブはエルサレムで処刑され、イエス信徒らは離散していた。そして70年には、ローマ軍はユダヤとエルサレムを壊滅させた。ローマにいたユダヤ人たちも滅ぼされた。ローマとエルサレムの間にあった、幾つかの「イエスの信徒らの会堂(教会)」もことごとく壊滅させられた。残ったのはローマ人を中心として形成されていたパウロとその後継者アポロのキリスト教集団だけであった。「キリスト教はローマに迫害された」というのは誤解で、ローマで迫害されたのはイエスを信じるユダヤ人たちであり、ペトロや12使徒に属する者たちであった。だからこそ、異邦人=ローマ人のパウロ&アポロのキリスト教だけが残り、勢力を拡大していくことができたのである。
 ユダヤが壊滅した後、残っていたイエスに関する文書はパウロの手紙だけであった。このパウロの手紙を頼りに、ローマのパウロ&アポロ集団は「キリスト教」を名乗り、ローマ帝国の中で共存していくためにローマ化した宗教へと姿を変えていった。 
 パウロとアポロのキリスト教は極めて寛容だったので、異教徒たちから容易に受け入れられた。とくにローマの支配者である皇帝にとって、あらゆる民族、あらゆる宗教に寛容で、すべてを包括するパウロとアポロのキリスト教は、国を支配する上で都合が良かった。そこに目を付けたのがローマ皇帝コンスタンティヌスであった。
 325年、ローマ皇帝コンスタンティヌスの呼びかけで、ローマのキリスト教会と各地にあった教会の司教たちがビザンツの都市ニカイアに集められた。彼らは、ローマ皇帝が国教化した宗教の教義について意見の統一を図るよう命じられたのである。ここでローマ皇帝コンスタンティヌスが決定したのが『ニカイア信条』である。この『ニカイア信条』が、キリスト教会正統派の信仰を初めて公式に承認する文書となった。このニカイア会議の後、1000年以上にわたってキリスト教正統信仰の名のもとに、目を覆う流血の惨劇が展開されていくことになった。




偽預言者・偽教師パウロ


 
新約聖書が公式に正典化される100年程前、ペトロとその弟子クレメンスによる2人の書簡をまとめた「講和」と、紀元150年頃に書かれたとされる「再会」という、2巻から成る「クレメンス文書」に、ルカの『使徒言行録』とは異なる伝承が残されている。その衝撃的な内容のため、キリスト教会はのちにこれを偽書とし、『偽クレメンス文書』と名付けた。
 その中に、イエスの弟で後継者であったヤコブが「敵」と呼ばれる「ある人物」と神殿内で激しい口論の末、その「敵」がヤコブを神殿の階段の下へ突き飛ばしたことが記録されている。ヤコブは死ななかったが、ひどい怪我をしたので、支持者たちがたちまち飛んできて、彼を安全な場所へ運んだ。この「敵」がタルソスのサウルにほかならないことが後に明らかになる。また、この文書では新約聖書の「ペトロの手紙U」でペトロが書いている「偽預言者」をパウロとしている。




パウロとアポロが造った教会


 
パウロは、ギリシャの都市コリントに教会を設立した。正確には、パウロは教会の礎を築いている段階で旅に出て、その後をアポロという人物に託した。
 アポロはアレキサンドリア生まれのユダヤ人で、雄弁であった。イエスの教えについては理解に欠けるところがあったが、その雄弁で教会を大いに発展させた。パウロは「私が植えて、アポロが水を注いだ」(コリ一:3:6)と述べている。
 パウロが土台を据え、アポロが作り上げたキリスト教会の門は、誰にも広く開かれており、律法を守る必要もなく、容易に拡がっていったが、異教の神々への信仰や異教の邪悪な習慣が根強く、信徒らの中から取り除くことができなかった。コリントの町の上にはギリシャの女神アフロディテの像がそびえ立ち、その神殿には神殿娼婦が溢れ、町では売春、男色が当たり前のように行われ、不品行に満ちていたという。別の場所にはアポロ神殿があり、人々の生活の中にアポロ信仰が根強く拡がっていた。コリントの教会には、使徒ペトロを慕って主の律法を遵守する人たちもいて、アポロ派とパウロ派とペトロ派が対立していたという。

 A.D.45年、コリントはローマの植民地となり、同70年にはエルサレムは破壊される。エルサレムに居た使徒たちと信徒たちは離散し、コリントのキリスト教会はローマ帝国の全土に拡がっていく。ローマ帝国は全国民にローマの神々を礼拝することを義務付けたが、主イエスの12使徒の信徒らはそれに従わなかったため、徹底的に迫害された。そんな中、パウロとアポロの教会は、ますますローマ全土に勢力を拡げていった。
 284年に即位した皇帝ディオクレティアヌスの時代には、パウロとアポロの教会以外の、12使徒の教会は徹底的に弾圧され、殺戮された。わずかに生き残った12使徒のイエス信徒らはローマを脱出して荒れ野に逃れ、地下へともぐり、正しい主イエスの教えを受け継いでいった。 その頃、パウロとアポロのローマ教会は、ローマ帝国の中で一大勢力となっていた。

 312年、カエサレアのエウセビオスは「ローマ皇帝コンスタンティヌスが見上げる空に、キリストのしるしを現出せしめる奇蹟を起こし、もって彼を信服せしめた」と『教会史』に記している。コンスタンティヌスは、パウロとアポロの教会の信徒らを容認し、「合法的かつ至聖なるカトリック教徒」と呼び、その支援者となった。同年10月28日、コンスタンティヌスは対立していたマクセンティウスに勝利し、翌年に「ミラノ勅令」を出してキリスト教信仰の自由を公認した。ローマ全土に数百万人という規模に膨れ上がった信徒を持っていた「合法的かつ至聖なるカトリック教徒」は、コンスタンティヌス帝にとって政策上の格好のパートナーであった。

 コンスタンティヌス帝の母ヘレナは63歳のとき、パウロとアポロのキリスト教会の熱心な信徒となって洗礼を受け、パレスティナに出かけてイエスが掛けられた十字架を探した。しかし見つからず、その場所を知っているというユダという男を召し出し、枯れ井戸に吊るすと、7日目に「ゴルゴダの丘に造られた女神ヴィーナスを祭った神殿に隠されている」と白状したという。そこから3本の十字架が発見されたが、どれがイエスが掛けられた十字架なのか分からない。そのとき、死んだ若者の葬列が通りがかり、3本の十字架が順に若者の死体の上にかざされ、3番目の十字架がかざされると若者が甦ったため、その十字架がイエスが掛けられた十字架ということになった。
 別に、3つの十字架のうちのひとつに触れた女性の病がいやされたので、これがキリストが磔にされた十字架と分かった、という話もある。
 この十字架はエルサレムの聖墳墓教会に置かれていたが、ササン朝ペルシャに奪われ、その後これを取り戻したが、分割されてあちこちに置かれたらしい。しかし、それが発見される度に、それがまがい物であることが判明し、「聖十字架」の真実性は定かでない。

 コンスタンティヌスが天空に十字架の幻を見た(彼は夢でも十字架をみたという)話と、母ヘレナの逸話は、300年代の「最初のキリスト教史家」と呼ばれるカエサレアのエウセビオスとコンスタンティヌス1世の息子クルスプスの家庭教師ラクタンティウス、その他の何人かの教会史家によって提供された。
 

※ヨハネ黙示録で主イエスは、7つの教会の天使に「こう書き送れ。」とヨハネに命じているが、7つの教会の中に、コリントの教会もローマの教会も含まれていない。