「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」真相
(西暦2022年2月追記)


 主イエスは言われた。
「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら −読者は悟れ−、そのときユダヤにいる人々は山に逃げなさい。(中略)そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである」(マタイ福音書24章15〜21)

 
ダニエルが言った「憎むべき破壊者」とは何か。

 ダニエル書9章に記されている。
「彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる」(ダニエル9章27)
 ダニエル書12章には、こう記されている。
「日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、1290日が定められている。待ち望んで1335日に至る者は、まことに幸いである」(ダニエル12章11〜12)

「憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つ」=「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す」=「憎むべき荒廃をもたらすものが建てられてから」
この3つの表現は、同じ一つのものを指している。

この3つを要約すると、憎むべき荒廃をもたらす破壊者は、憎むべきものの翼の上に座している。
では、憎むべきものの翼とは何か。

同じダニエル書に「翼」が出てくる箇所がある。7章だ。


「ある夜、わたしは幻を見た。見よ、天の四方から風が起って、大海を波立たせた。すると、その海から4頭の大きな獣が現れた。 それぞれ形が異なり、第1のものは獅子のようであったが、鷲の翼が生えていた。見ていると、翼は引き抜かれ、地面から起き上がらされて人間のようにその足で立ち、人間の心が与えられた。第2の獣は熊のようで、横ざまに寝て、3本の肋骨を口にくわえていた。これに向かって、『立て、多くの肉を食らえ』という声がした。次に見えたのはまた別の獣で、豹のようであった。背には鳥の翼が4つあり、頭も4つあって、権力がこの獣に与えられた。この夜の幻で更に続けて見たものは、第4の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった」(ダニエル7章4〜7)



ここに出てくる4つの獣は、主イエスが登場する以前に出てくる獣で、第1のものはバビロニア、第2はメディア&ペルシャ、第3はギリシャ(マケドニア)でアレキサンダー大王亡き後に4つに分割統治された。そして第4の獣がローマである。

 第1の獣は翼が生えていが抜き取られているので、翼があるのは第3の獣だ。4つの「翼」は、アレキサンダー大王亡き後に4分割されて統治されたことを意味していることが分かる。
この4つは、アレキサンダー大王の死後ギリシャを4分割統治した4人の将軍のことでもある。そのうちの1人がアンティオコス・エピファネスだ。





祭壇の上に「憎むべき破壊者」を建てたアンティオコス・エピファネス




 アンティオコス・エピファネスは、イスラエルに侵略してエルサレムに入り、神殿の祭壇の上に「憎むべき破壊者」を建てたと、聖書続編マカバイ記一の1章54に記されている。

 彼がエルサレムの祭壇の上に建てたのは、ギリシャ神のゼウス像である。
 その後、イスラエルの人々はアンティオコスらと戦う。戦いの最中にローマが台頭し、ギリシャは滅び、ローマがイスラエルの地を統治して、そこに主イエスが登場するのである。


 主イエスは当然、アンティオコス・エピファネスがしたことを知っていた。その上で主イエスは「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たらー読者は悟れー」(マタイ13:14)と言われている。

 やがて来る「終わりのとき」に、アンティオコス・エピファネスがしたように、エルサレムの祭壇にギリシャ神のゼウス像が建てられる、そんなことはあり得ないと言えるだろうか。

 かつて日本にキリスト教が伝来した際、日本語に訳された聖書に「神」という文字はなかった。後に神と訳される文字は、真言密教の本尊である大日如来を意味する「大日」と訳されていた。だが、それはすぐに「でうす」に訂正された。「でうす」とはギリシャ神ゼウスのラテン語である。キリスト教の宣教師が持っていたラテン語の聖書に書かれていた神は「デウス」。それをそのまま用いたのである。
 キリスト教では、イエス・キリストは神でもあるとされる。つまり聖書の「でうす(ゼウス)」は、イエス・キリストでもあるのだ。

 もしキリスト教が、エルサレムの祭壇にキリスト像を建てるとしたら、それはゼウス像を建てることをも意味することになる。
 すでにエルサレムのキリスト教会には、キリスト像が建てられている。
 戦争が起こってキリスト教世界が脅威にさらされ、かつての十字軍のようにキリスト教国の軍隊がエルサレムを奪還したならば、エルサレムの神殿の祭壇にキリスト像を建てることをしないと言えるだろうか。キリスト教徒は、エルサレム神殿はイエス・キリストの本来の家であり、イエス・キリストは神殿に住まうべきだと考えているのだ。神殿にキリスト像が建つことこそ、あるべき姿だとしないだろうか。

 そもそも偶像に、キリスト像とゼウス像の違いなどというものが、あるだろうか。
 キリストを見た者も、ゼウスを見た者も、いないのだ。
 悪魔が偶像崇拝に仕掛けた巧妙な罠が、どのような結果をもたらすことになるか。

 目を覚まさなければならない。

 主イエスは、良い種を蒔かれた。そこに悪魔が毒麦の種を蒔いたのだ。
 終わりの日の収穫のときまで、良い麦も毒麦もそのままにされている。
 そして刈り入れのときが来る。


イエスは、別のたとえを持ち出して言われた、「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵がきて、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った、『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう』。主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った、『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。』」マタイ福音書13:24〜30
それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄ってきて、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者ども自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。マタイ福音書13:36〜42


(※注)「不法を行う者ども」とは法=律法に違反することを行う者どものこと。律法の1.あなたには、わたしのほかに神があってはならない。2.あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない。