12使徒は十字架を信仰しなかった


 教会の中に十字架が持ち込まれたのは431年にローマ皇帝テオドシウスが開催した「エフェソ公会議」以降である。マリアを神の母と呼ぶことが公認されたのもこのときからで、現在のキリスト教会の教義の多くが、この「エフェソ公会議」に基づいている。ちなみに、パウロのローマ教会が権力を掌握したこの「エフェソ公会議」の採択によって、12使徒の教会のほとんどすべてが異端とされて追放され、ローマ教会の徹底的な迫害にあい、壊滅させられた。その後、586年に教会の上に十字架が立てられたのである。

 キリスト教会では、信徒になるために、生まれ変わった人間として生きるため自らの罪を洗い清める名目の「洗礼」の沐浴を受けることが必要とされる。水中に入り、水から上がることにより、「再び生まれた」ことになった受洗者は、教会が用意した新しい名で呼ばれるようになり、父なる神とイエス・キリストと聖霊の名を伝授者から聞き、兄弟姉妹と呼び合う者たちの仲間入りをする。西暦140年頃にローマで洗礼を受けた有名な哲人・殉教者ユスティニアスによれば、信徒たちは洗礼を『照明(イルミナティ)』と呼んだ。 その「イルミナティ」なる洗礼を現在の教会も面々と受け継いでいる。
 教会に集まった兄弟姉妹たちは新参者を招いて「聖体拝領」のパンとぶどう酒を分かち合うが、聖体拝領の起源は、いわゆる「最後の晩餐」にあるとされる。イエスが弟子たちにパンを与えながら「取りなさい。これは私の体である」と言い、また弟子たちにぶどう酒を与えて「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」と言った、との福音書の記述が、それである。しかしながら、実際のイエスの最後の晩餐は『マルコ福音書』に、ユダヤ教伝統の「過越祭」であったと記されている。『マルコ福音書』よりも後にまとめられた『マタイ福音書』と『ルカ福音書』は、それぞれマルコの物語を拡張していて、それによればイエスは単にパンとぶどう酒を祝福したばかりでなく(ユダヤ教の過越祭では家長がパンを裂いて祝福し、ぶどう酒を祝福した)、弟子たちに「記念としてこのように行いなさい」と命じたという。ユダヤ教の過越祭は、神がモーセを通じて「主の民」をエジプトから脱出させた解放の記念として行うよう命じられていた祭である。
 ルカやマタイよりもさらに後にまとめられたとされる『ヨハネ福音書』は、最後の晩餐は過越祭の前日であったとし、他の福音書に異を唱えている。さらにその上、『ヨハネ福音書』の著者は、最後の晩餐の際にイエスが弟子たちの足を洗ったという新しい話を付け加えている。この『ヨハネ福音書』にしかなく、他の福音書には記されていない「洗足」の儀式は、ローマ・カトリックやギリシャ正教、プロテスタントのバプテスト派やモルモン教が、後に秘蹟として取り入れた。最後の晩餐が過越祭の前日だったとすれば、イエスの逮捕は木曜日の夜となり、十字架は翌日の金曜日=過越祭の日没前となる。これが「イエスの十字架はイスラエルにおける過越祭の『犠牲の子羊』である」との認識を生むことになり、イエスが十字架で流した血と、最後の晩餐で言ったイエスの言葉が連結されて、「イエスの十字架の犠牲は人々の罪を代わりに負って贖(あがな)う子羊の犠牲と同一である」とされるようになった。ここから「十字架」が大きな意味を持つことになった。さらには、主イエスが十字架に架けられようが架けられまいがメシヤであることに変わりないはずであるにもかかわらず、十字架こそがキリストたる所以であるとの教義がキリスト教の中心に据えられることになっていく。
 そもそも、最後の晩餐についてもっとも早い時期に触れたのは4福音書ではなく、パウロの手紙である。紀元54年頃に書かれた『コリントの信徒への手紙1』でパウロは、「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。」(11・23〜25)と述べている。
 つまり、パウロが「イエスから受け継いだもの」と明言したことで聖体拝領の伝統が出来上がったのであるが、実はパウロは生前のイエスに会ったこともなければ、話をしたこともなかった。ましてやイエスの最後の晩餐に同席したこともなければ、それにあずかったこともない。それを「わたし自信、主から受けたものです。」と書くのは、嘘と言っていい。パウロの友であるルカが書いた『使徒言行録』にさえ、イエスの死後に弟子たちはイエスを裏切って死んだイスカリオテのユダの代わりに使徒を選出する際、ペテロの提唱により主の復活の証人となるべき者は「ヨハネの洗礼のときから始まってイエスが天に上げられた日までイエスと弟子たちといつも一緒にいた者の中から選出されるべきだ」とされ、その者の中から「くじ」でマティアが選出されたことが書かれている。「くじ」は、ユダヤ教で祭司などが選出される際に使われる神託の手段であった(律法では占いは固く禁止されているが、くじは占いではない)。
 生前のイエスと共に居なかったパウロに、使徒の資格はなかったのである。聖体拝領は、パウロが主イエスから受けたものではない。そして使徒の資格を持たないパウロは、自分自身で「使徒」を自称しはじめたのである。
 
 では、パウロとローマ教会が独自に創りだした聖体拝領の儀式の起源は、いったいどこにあったのだろうか。これと非常に近いものは、ギリシャ・ローマの偶像崇拝の儀式に見られる。ギリシャの愛の呪術によると、男性は杯に血をあらわすワインを満たし、愛する女性を想ってまじないを唱える。エジプトの神オシリスは、女神イシスの愛を得るために同様の呪術を用いたという。イシスがそのワインを飲むと、オシリスの血を飲んだことになり、象徴的にオシリスと「結合」したという。そのワインはオシリスの肉をも象徴するという。象徴的に、肉を食べ、血を飲むという儀式は、ギリシャ・ローマの偶像神と「結合」するための偶像崇拝の儀式であった。パウロは、イスラエルではなくタルソスというギリシャ・ローマ圏で育った知識人であったため、こうした風習をよく知っていたと言われる。
 最後の晩餐について順序だてて記している『ヨハネ福音書』は、パウロが言ったようなイエスの言葉にはまったく触れていない。もし、イエスが最後の晩餐でパンを自らの肉とし、ぶどう酒を自らの血として弟子たちに与えたとしたら、『ヨハネ福音書』の著者がそのことだけをあえて書かなかったということは、まず考えられない。『マルコ福音書』は、パウロの『コリントの信徒への手紙1』から約10年後に記されたもので、マルコが一時はパウロに同行していたことからすれば、パウロに影響されて、この儀式を取り入れたと考えられる。『マタイ福音書』と『ルカ福音書』は、『マルコ福音書』の記述をもとにして書かれたものであるから、これをなぞっていても不思議はない。
 イエスの弟子たちは、この儀式を行ったことがなかった。彼らはイスラエル人として過越祭にパンとぶどう酒を聖別していたのである。1873年にコンスタンティノープルの図書館で発見された『12使徒の教訓(ディダケー)』は、2世紀初めに著されたものと判明したが、その中に洗礼と聖餐(せいさん)について書かれた章があり、12使徒と信徒たちによるパンとぶどう酒の聖餐についてこう記されている。

 聖餐については、次のようにして感謝の気持ちを表すこと。まずは杯について。「わたしたちの父よ。御子イエスをとおして、あなたがわたしたちに明らかにされた、ダビデの聖なるぶどうの木に感謝します。あなたの栄光が永遠に続きますように」。パンについて。「わたしたちの父よ。御子イエスをとおして、あなたがわたしたちに明らかにされた命と知恵に感謝します。あなたの栄光が永遠に続きますように」。

 ぶどう酒が血を、パンが肉を表すということには、まったく言及されていない。そして、これがイエスの12弟子と信徒たちの聖餐の記録なのである。この記述は『死海文書』に記されている『メシアの聖餐』の記述にも沿っている。イエスの12弟子たちは、パウロが書いているような儀式は知らなかったのである。
 さらに言えば、過越祭の儀式では、最初に祝福されるのはぶどう酒で、パンはその次である。ディダケーでも、その順序で聖餐の儀式が述べられている。パウロは逆である。
 イエスの12弟子と信徒らに「イエスの十字架=過越祭の犠牲の子羊」との認識がなかったのは当然のことであったし、イエスが十字架で流した血と、最後の晩餐で言ったイエスの言葉が連結されることもなく、「イエスの十字架の犠牲は人々の罪を代わりに負って贖う子羊の犠牲と同一である」として十字架を礼拝する信仰もなかったのは、当然のことであった。

 実際、12使徒も初期の信徒も、十字架を信仰していなかった。エルサレムの信徒たちも、キプロスやアンティオキアの信徒たちも、ローマ帝国に迫害されていたローマのキリスト教徒も、である。イエスの十字架後、数百年の間は、信徒は十字架を、ましてやイエスの磔刑の姿を、信仰の象徴とはみなしていなかった。彼らが仰ぐのは神のみであり、十字架を仰ぐことはなかった。
 イエスの肖像も存在しなかった。イエスはキリスト教徒ではなくユダヤ教徒であり、誰よりもユダヤ教の正典(律法)に忠実だったので、神の像を造ることはなかったし、その他(聖母や聖人など)の偶像を造ることもなかった。12使徒や信徒たちも皆、神の律法に忠実だったので、イエスの姿かたちを描いたり刻んだりすることはなかった。
 イエスは割礼を受け、ユダヤ教の祭礼である過越祭や仮庵祭には神殿に参詣して祝い、ユダヤ教の正典(律法)に精通し、その一点一画もおろそかにせず守り、安息日を守った、熱心なユダヤ教徒であった。イエスが律法を破ったことは一度たりともないし、むしろ当時ないがしろにされていた律法の正しい解釈を厳しく教えた(当時のユダヤでは言い伝えを守ることが優先されて律法がないがしろにされていたので、イエスはそれを強くとがめた)。また、イエスは、ユダヤ教の神殿や会堂で説教したのである。
 キリスト教徒は、偶像や十字架を仰ぐことを正当化するために、偶像や十字架は単なる象徴であって、その奥におられる主を仰いでいるのだ、と言う。しかし、十戒で神は、そのことをこそ禁じおられるのである。偶像は、ヘブライ語でいう、神の顔の上に偶像や他の神々をおく行為なのである。自分と神との間に、それを置いて、自分と神の顔との間をさえぎるな、と神は命じておられるのである。そもそも、なぜ象徴を通さなければ神とつながることができないと考えるのだろうか。それは、自分と神とがつながっていないことの証明でしかない。自分と神との間を偶像や十字架に取り持たせると考えるとしたら、あまりにも愚かである。偶像や十字架は、自分と神の顔との間を、さえぎるものでしかない。それは、まむしの子らの姑息な詭弁でしかない。神を信じるならば、まっすぐに、何ものもさえぎるものもないところで、まっすぐに神の前に立ち、自分のありのままの姿を、あからさまにさらし、神の前に立たなければならない。偶像や十字架でさえぎったり、罪を犯した個所をイチジクの葉で隠したりしてはならない。その当たり前のことを、彼らは姑息に隠し、自分と神の顔との間に偶像を置くのである。そして、信徒にもそれを進めて、神に立ち帰ることができないようにしている。

 さらに衝撃的なのは洗礼についての事実である。生前のイエス自身も12使徒も、当時の信徒らも、誰一人としてキリスト教の教義が定める正しい洗礼、すなわち「父と子と聖霊の御名による洗礼」は受けていないのである。彼らは、ヨハネから「悔い改めの洗礼」を授かったにすぎない。
 後のキリスト教徒は律法を捨ててキリスト教の新しい伝統を創設したが、イエスと使徒たちは律法を捨ててはいなかったし、キリスト教の新しい伝統を創設したのでもなかった。明らかにイエスも、イエスの弟子や信徒たちも、自分たちがユダヤ教とは別の宗教を創設しているとは考えていなかった。
 イエスが十字架についた後も、弟子や信徒らはエルサレム神殿やユダヤ教の会堂で、生前のイエスが説いたのと同じく、神の国が近づいたことを宣教した。メシア・イエスの主な使命は、主の民を、「失われた部族」も含めて、神のもとに立ち返らせることであった。イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」(マタイ15・24)と言い、また12使徒を選出して派遣し、「異邦人の道に行ってってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた(ヘブライ語では「天の国は来た」)』と宣べ伝えなさい。」(マタイ10・5〜7)と命じた。マルコ福音書の最後に、復活したイエスが「全世界に福音を宣べ伝えなさい」と記され、マタイ福音書の最後に復活後のイエスが「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けなさい」と記されているのは、後代の加筆であることが明らかにされている。
 当時、ローマ支配下のユダヤに残っていた人々は、ユダ族とベニヤミン族と少しのレビ族、そして多くの偽ユダヤ人であった。他のイスラエル10部族の大半は、侵略者の土地に移住させられたり、北西に移住したり、ユーフラテス川を渡って東方にも移住していた。正当なユダヤ人ではない者も多かった。神殿の回廊でイエスを取り囲んだ当時のユダヤ人たちから「あなたがもしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と問われた際、イエスは「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」(ヨハネ10・26)と答えている。
 イエスは散り散りになって失われたイスラエルの部族を再編成するため、12人の使徒を選んだのであった。

 キリスト教の最古の資料のひとつである『12使徒を通して諸国民に与えられた主の教訓』(ディダケー)によれば、初期のイエス信徒は自分たちのことを「キリスト教徒」とは考えておらず、「主の民」と考えていた。「主の民」とはイスラエル12部族の称号で、イスラエル人と同意である(イスラエルという名は12部族の父祖ヤコブに神が与えた新しい名で、勝利者を意味する)。
 『12使徒を通して諸国民に与えられた主の教訓』は、『マタイ福音書』や『ルカ福音書』よりも10年も前に書かれたもので、この書には「死の道」(貧しい者を顧みず、苦しむ者を抑圧し、貧しい者を不正に裁く、富の唱道者の道)に従わないよう警告を発した後に、イエスのように「全き者(完全な者)」であれ、と記されている。そして「全き者」とは、「主の軛(くびき)のすべてを担う者」すなわち、律法の全てに従う者であるとされており、『マタイ福音書』に記されているそれとは異なっている。さらに『マタイ福音書』とは異なり、「仮に、そうなれないならば、自分に可能な限りのことをせよ」と付け加えられている。
 イエスが言われた「全き者」とは、幼な子のような者(幼な子はほとんどの場合、殺したり姦淫したり偽証したりしないし父母を敬う)だと思われるが、「律法の全てに従う者である」という見解は的を得ている。

 イエスの教えに反して律法を切り離して別の新たなキリスト教信仰を考え出したのは、パウロである。
 パウロが信仰と律法とを切り離して考えたのに対し、イエス信徒は、イエスが教えた「律法の偉大な解釈=律法の偉大な完成」を信仰していた。そして、それは『マルコ福音書』に記されているイエスの実像と完全に一致している。
 そして、パウロが宣教したのは、「神の国」が近づいたことではなかった。イエスは神の国を宣教したが、パウロが宣教したのは、イエスその人であった。ここからキリスト教は、神の国を宣教するのではなく、イエスその人を宣教する教団へと変質した。これは、もはやイエスの集団とは異なる「別の集団」である。

 イエスは律法を退けるどころか、『マタイ福音書』では次のように語ったとされる。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から1点1画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を1つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ5・7〜20)。 またイエスは、人間の言い伝えによって神の掟をないがしろにすることを厳しく戒めている(マルコ7)。
 イエスがあらゆる律法の掟の中で、第1にあげたのは、次の掟であった。 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マルコ12・29〜30)。これは旧約聖書の律法すなわち申命記6・4〜5の記載と全く同じである。
 
 イエス信徒には、12月25日をイエスの誕生日として祝う習慣もなかった。12月25日はローマが崇拝していた異教の偶像=ペルシャ起源の太陽神ミトラの誕生日で、旧約時代にはバベルの塔を建設しようとして神の怒りを買ったニコデモの誕生日でもあり、彼らにとってはむしろ忌むべき日であった。キリスト教徒がこの日をイエスの誕生日とするのは354年、ローマの司教リベリウスのときに、それを決めて以降のことである。ちなみに、新約聖書にはイエスが馬小屋で生まれ、祝福されたという記述は、どこにもない。 また、福音書では、野営していた羊飼いたちの前にイエスの誕生を知らせる御使いが現れるが、太陽暦の12月25日頃には野営は行われない。ユダヤの口伝律法ミシュナーによれば、牧童たちが野営できる季節は、初めの雨(秋の雨)までの期間で、11月以降は寒さのために野営しないと記されている。