福音書とは何か

 
 そもそも、「福音書」とは、いったい何であろうか。
 「福音」とは「良い知らせを書き記したもの」の中国語訳で、「良い知らせ」とは旧約聖書に使われている言葉である。旧約聖書では単純にグッドニュースの意味での「良い知らせ」という言葉も使われているが、特にユダヤ教徒やキリスト教徒が引用する際には、預言者イザヤが用いた「良い知らせ」の意味を指す。
 預言者イザヤが用いた「良い知らせ」は、「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。」(52・7)や、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(61・1)のように、預言者が伝える「良い預言」のことである。
 キリスト教は、旧約の預言者が預言した「良い知らせ」とは、主イエスの登場のことであると解釈して、キリスト教がイエスの事跡を記した聖典を「良い知らせ=福音書」と名づけ、『マタイ』『マルコ』『ルカ』『ヨハネ』の4種類の福音書が「聖書」の中に収められ、現在では世界の隅々にまで普及している。
 ただし、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、必ずしも良い預言を伝えたわけではなく、良い預言の成就としての主イエスの到来を伝えたもので、本来の「良い知らせ」の意味であるとは言えない。新約聖書の「ヨハネ黙示録」の書記も、「神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」(10・7)と記しているように、「良い知らせ」とは本来、預言者が告げる良い預言のことなのである。
 そういう意味では、福音というのは、「良い知らせ」というよりは、「良い知らせの成就としての主イエスの到来を伝えるグッドニュース」と解釈した方がよい。
 新約聖書の4つの福音書の概要は次のとおりである。

 マルコ福音書 最初の福音書と言われる『マルコ福音書』が著されたのは、紀元後50年代とも70年代とも言われる。この福音書は、大部分が使徒ペテロの証言に沿って書かれたと伝えられている。70年代の初めにユダヤはローマによって滅ぼされて神殿を失い、ペテロは70年代中頃にローマで逆さ十字架に架けられて処刑されたとされる。マルコは後にパウロの第1回伝道旅行に同行したが、途中で帰ってきてしまう。そして、第2回目のパウロの伝道旅行に同行しようとしたが、パウロに拒否された。マルコは、主イエスの誕生の経緯にはまったく触れておらず、何らの関心も示していない。この福音書は、洗礼者ヨハネによる宣教から始まっている。マルコは、主イエスの母マリアが少なくとも5人の男の子と2人の姉妹の母親であったことを記している。そして、母マリアは息子イエスがキリストであったと認識していた様子はない。 また、最初の福音書である『マルコ福音書』が最初に書かれた版には、主イエス復活の物語はまったく含まれていない。最初に書かれた版から300年以上たった4世紀のどこかで、16章9節以降のイエス復活の物語が加筆された。3世紀に活躍したキリスト教の神学者、アレクサンドリアのクレメンスとオリゲネスは、この加筆部分を知らなかった。4世紀の神学者エウセビオスとヒエロニムスはこの部分を知っていたが、自分たちが見たギリシャ語の写本のほとんどすべてに、それが含まれていないことを知っていた。16章9節以降の加筆された物語には、他にも2種の創作が流布していた。

マタイ福音書 『マタイ福音書』は、『マルコ』より10年ほど後に、『マルコ』を使用しながら主イエスの教えをすべてアレンジし直し、マルコの語る主イエスの事跡の中に織り込んで書かれたとされる。マタイがそうすることで紡ぎ出したイエスの性格やその教えの調子は、マルコに記録されているものとは随分と異なっている。『マタイ』には他の福音書と異なる特別の物語が挿入されている。それはイエスの誕生物語と幼年時代の物語、山上の垂訓と呼ばれるもの、復活後の顕現物語などである。マタイは、救世主がダビデ王家の一族から出現するという旧約の預言が主イエスを指していることを示そうとし、福音書の冒頭でダビデから主イエスにつながる系図を示している。この系図は父系を記していながら、最後に「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」と突如として母系に変わる。次に、主イエス誕生の経緯が語られる。ヨセフとマリアは婚約していたが、一緒になる前にマリアが聖霊によって身ごもっていることが明らかになる。ヨセフはひそかに縁を切ろうと決心したが、主の御使いが夢に現れて「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げる。マタイは、旧約聖書イザヤ書の「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7・14)との預言を主イエス誕生の出来事に結び付ける。マタイは、ヘブル語のイザヤ書では「若い女」を表す言葉を、ギリシャ語訳の訳者が間違って「処女」と訳したことを誤ってそのまま記している(キリスト教に回心した 殉教者ユスティノスも認めているとおり、元来のヘブライ語で預言者イザヤが書いたのは単に「若い女が身ごもる」ということに過ぎない。つまり、この預言はすぐ先に起こる南ユダ王国アハズ王の世継ぎヒゼキヤの誕生を預言していたのである。この預言の前後に書かれていることを読めば明らかで、この部分に続く17節に預言されているとおりにヒゼキヤ王の時代にアッシリアの王が攻めてきた)。このことは、マタイがヘブル語のイザヤ書を読んでおらず、ギリシャ語訳の旧約聖書を参考にしたことを示している。『マルコ』ではイエスは、ヨセフとマリアの間に産まれた最初の子であり、少なくとも7人の子を産んだマリアの子の1人だが、マタイはマリアが救い主の母であることを強調し、マリアのその他の子には関心を示さない。さらに重要なことは、ヨセフとマリアが結び合って主イエスが産まれたのであれば、主イエスがダビデやアブラハムの血統につながっていることを示すことに意味があるが、マリアがヨセフと無関係に聖霊によって身ごもったのであれば、マタイの系図は意味をなさない。また、マタイはイエス誕生の際に占星術の学者たちが東の方から来て、生まれた主イエスを礼拝したと書いているが、 ルカは『マタイ』と違って、東方から来た占星術の学者ではなく、ベツレヘム地方で野宿していた羊飼いたちが主イエス誕生を祝って神を賛美したと書いている。

ルカ福音書 『ルカ福音書』の著作年代は不明だが、『マタイ』よりさらに10年ほど後に書かれたとも、『マタイ』よりも前にローマ帝国内のギリシャ語圏都市かギリシャ本国で書かれたとも言われる。他に、120年頃にエーゲ海沿いの町で書かれたとの説もある。主イエスと懇意だったラザロ・マルタ・マグダラのマリアの父の名もテオフィロで、ローマの高官だったことから、ルカは主イエスと同時代の人(パウロの友人の医者ルカ)で、ルカ福音書が最も最初に書かれたとの説(ルカ年代優先説)もある。『ルカ福音書』は、冒頭にルカ自身が記しているように『敬愛するローマのテオフィロ様への献呈文』の上巻であり、『使徒言行録』はその下巻であって、2つで1つである。ルカは、主イエス誕生の物語に大きな紙幅を割き、洗礼者ヨハネの誕生とイエス誕生が連動していることを書いている。洗礼者ヨハネを産む不妊の老女エリサベトは初代の大祭司アロン(モーセの兄)家の子孫の娘で、その夫である老ザカリアは祭司であった。当番祭司として主の聖所に入って香を焚いていたザカリアに主の御使いガブリエルが現れて香壇の右に立ち、エリサベトが男子を産むことを告げる。そしてエリサベトが6ヶ月の 身重となった後に、ガリラヤの町にいたマリアにガブリエルが現れ、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げる。マリアは、自分が男をまだ知らない処女であることを告げると、ガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」と告げる。マリアの夫ヨセフは登場せず、いいなづけのマリアが一緒になる前に身ごもったと悩むこともなく、縁を切ろうかと頭を悩ませることもない。マリアが人間の男と交わらずに身ごもったとも書かれていない。また、ルカもマタイと同じく主イエスの系図を入れている。その冒頭に「イエスはヨハネの子と 思われていた」と書いている。この系図は、マタイと違ってダビデとバテシバの子ソロモンは含まれず、ダビデの子ナタンの系統から主イエスに至る。マタイの系図ではヨセフの父はヤコブだが、『ルカ』ではエリとなっている。主イエスがヨセフとマリアの子であるならば、この系図は主イエスが「ダビデの若枝」であることの証明の意味を持つが、聖霊とマリアの子であるならば、意味をなさない。ちなみに、当番祭司については旧約の『歴代誌上』に詳しく書かれており、これに照らし合わせると主イエスの誕生はユダヤ暦の第7の月で、秋の仮庵祭の頃である。従って主イエスの誕生は、12月25日ではない。ルカは、マタイと違って、東方から来た占星術の学者がイエス誕生を祝ったとは書いていない。代わりに、ベツレヘム地方で野宿していた羊飼いたちがイエス誕生を祝って神を賛美したと書いている。
(当然のことながら、主イエスを不倫の子と申し立てる者たちもいた。ニコデモ福音書とかピラト行伝と呼ばれる文書に、そのことが記されている。これらの文書の著作年代は不明だが、紀元2世紀とする研究者もいれば、4世紀とする研究者もいる。そこには、ピラトの前に引き出された主イエスに対して、ユダヤの長老たちが「私たちが何を分かるだろうと言うのか。だいたいお前は不倫の関係から生まれたではないか。それにまたお前が生まれたおかげで、ベツレヘムでは大勢の赤子が殺された。さらにまた、お前の父親ヨセフと母親マリアはエジプトへ逃げて行ったではないか。民の中で日陰者だったからだ」と記されている。4世紀の最初のキリスト教史家エウセビオスが著した『教会史』によると、主イエスはマリアとその夫の性的交わりから生まれたが、徳を積んで義とされた貧しい普通の人間で、それ以上ではなかったと主張していたエピオン派に言及している。主イエスがヨセフとマリアの性的関係から生まれたと主張したのはエピオン派だけではなく、教会の中にもおり、エウセビオスはその1人としてテオドトスの名を挙げている。これにより、2世紀の終わり頃の教会の状況をうかがい知ることができる。)

ヨハネ福音書 『ヨハネ福音書』は、西暦85〜90年頃もしくは1世紀に書かれたと言われる。この著者は、この福音書を書いた目的を、「人々がこれによって、主イエスが神の子であることを信じて、永遠のいのちを得るためである」(20・31)と記している。つまり、正確に事件や物事を記述したというよりは、神学的要素が色濃く反映されている文書であるといえる。また、この福音書は、他の3つの福音書を読んだ上で執筆されているため、他の3つの福音書には描かれていない主イエス像を描こうという意図で書かれている。この頃、ペテロもパウロも殉教していて、既にいない。この福音書の著者は、マルコと同様、主イエス誕生の物語には触れていない。『ヨハネ福音書』は、物語の極めて重要な点で、他の3つの福音書の記述と対立している。『ヨハネ』では、主イエスの最後の日々の内容が異なっているし、神殿で商売する商人を妨害するエピソードは、他の3福音書が一致してこれを主イエスの公的活動の最後のエピソードとして記述しているのに対し、ヨハネはそれを最初に置いている。また、ヨハネは他の福音書にはまったく登場しない、ラザロを死から 甦らせる話や、最後の晩餐で主イエスが弟子たちの足を洗う話を登場させている。カナの婚礼、ニコデモと主イエスの夜の出会い、サマリア人の女との井戸端での出会い、不信のトマス、復活したイエスを庭師と間違うマグダラのマリア、といった話もヨハネが挿入した話である。また、他の福音書は主イエスを人間として描いているのに対し、ヨハネはイエスの神性を明確に述べる(しかし、3つの共観福音書と大きく異なる内容を記述しているのは『ヨハネ』だけではなかった) 。なお、姦通の女が石打にされそうになった際に主イエスが、罪を犯したことのない者が石を投げなさい、と言ったという、この福音書にみに登場す有名な逸話は後代の挿入とされている。ローマ教会の教父たちは、この『ヨハネ福音書』の著者を主イエスの12弟子のヨハネだと考えた。しかし、それが誤りであることは明白である。なぜならば、『ヨハネ福音書』の最後にこう書かれているからだ。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子(主イエスが愛していた弟子)である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」(21章24節)。つまり、主イエスが愛していた弟子が書いたのは『ヨハネ福音書』ではなく、『証し』なのである。そして、『ヨハネ福音書』を書いたのは、その弟子ではなく、その弟子を「彼」と呼ぶ立場にいる者なのだ。著者は、彼(主イエスが愛していた弟子)の証しをもとにして、『ヨハネ福音書』を書いたと、はっきりと記している。

福音書の著者は誰か 4つの福音書を編纂したのは、教父エイレナイオス(ラテン語ではイレナエウス。カトリック、正教会、聖公会、ルーテル教会で聖人として崇拝されている)である。当時、初期教会では他にも多くの福音書が存在していた。その多くは作者不詳であった。そして、様々な福音書を様々なイエス信徒たちが信奉していた。エイレナイオスと教父たちは、それらすべてのキリスト教の諸教会を1つにまとめ上げることを画策していた。その手段として、エイレナイオスと教父たちは、自身が正しいと信じる福音書を4つに絞り込んだ。エイレナイオスと教父たちが、自分が正しいと信じる福音書の正当性を主張するための方法はただ一つであった。それらを権威づけるために、4つの福音書に12弟子の名を冠することである。エイレナイオスと教父たちは、当時マタイによって書かれた福音書として流布していた福音書を、まず『マタイの福音書』だと認定した。次に、ペテロの視点で書かれていた福音書を、ペテロの書記官だと考えられていたマルコが書いたものだとして『マルコの福音書』と名付けた。さらに3つ目の福音書は『使徒言行録』の作者でもあることから、パウロの仲間のうちの誰かが書いたに違いないとされ、それは医者のルカだとされて『ルカの福音書』と名付けられた。そして4つ目は、「イエスが愛していた弟子」という言葉が頻繁に出てくることから、それはヨハネだと考えられて『ヨハネの福音書』とされた。この福音書には、書き手は主イエスを直接知らないとはっきりと書かれている上に、この福音書の中にヨハネの名はどこにも書かれていないにもかかわらず、である。しかし、実際には主イエスの弟子たちは福音書を書いていない。彼らはアラム語を話す、ガリラヤ出身の無学(文盲)で、身分の低い者たちであり、後世の学のあるギリシャ語を読み書きするキリスト教徒ではないからである。4つの福音書を書いたのは実際には、後世の学のあるギリシャ語を読み書きするキリスト教徒である。それゆえに旧約聖書の引用を多く訳し間違えているのである。主イエスの弟子たちは無学ではあったが、幼い頃から旧約聖書を暗記するほどに覚えていたはずである。当時のイスラエル人の誰もがそうであったように。その弟子たちが、ギリシャ語を間違えることはあったとしても、旧約聖書の引用を間違えるはずはないのだ。エイレナイオスと教父たちが次に実行したことは、この4つの福音書だけが「普遍的(カトリック)」と定義し、4つの福音書以外のすべての福音書を破棄させ、それを信じない信徒らを「異端」として抹殺することであった。そして、それは実行された。しかし、今日の新約学者の中で、エイレナイオスに賛同する者はほとんどいない。それにもかかわらず、エイレナイオスが作ったキリスト教会は、自分たちの誤りを正そうとはしない。カトリックもプロテスタントも正教会も、である。キリスト教会は、すでにそれができないほどに巨大な組織となり、世の巨大権力と化してしまったからである。
 

 
捏造され改ざんされてきた福音書

 新約聖書に収められている4つの福音書の中で『マタイ』『マルコ』『ルカ』の3書は、ほぼ同様の観点を共有しているところから、学者たちは『ヨハネ』以外の3福音書を「共観福音書」と呼ぶ。記者が記事を書くように、「共に観たままを記述している」ということでもある。しかし詳細に読み比べてみると、「共観」と呼ばれる3書の記述の中にすら重大な異同があり、互いに矛盾する点も多いことがわかる。中でも新約聖書の冒頭に位置する『マタイ』は、最も古い福音書である『マルコ』の中のイエスの教えを、ひとまとめに「山上の垂訓」と呼ばれるシーンを創設してまとめてしまうなど、創作が多い。
 また、『マタイ福音書』の書記は、旧約聖書に記されている預言がイエスの時代に成就したとして、過去の預言と出来事を対応させることに尽力しているが、今日の学者の多くは、マタイが示している預言と出来事との対応は、マタイが預言に合うように物語を捏造したことを示していると考えている。
 たとえば、マタイは旧約の『ゼカリヤ書』の預言を引き合いに出して、こう記している。

 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負 うろばの子、子ろばに乗って。』(21・5)

 この引用部分である「ゼカリヤ書」に実際に記されているのは、下記のものである。
 
 
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」(9・9)

 マタイはゼカリヤの預言を、主イエスが過越祭の日にろばに乗ってエルサレムに入城したことの預言であると考えた。しかし彼は、「ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」という部分を、2頭のろばだと勘違いした。そして、その預言に結び付けるために、彼はこう書くのである。

 「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、それらの上に服をかける  と、イエスはそれらにお乗りになった。」(21・6〜7)

 『マタイ福音書』よりも早く書かれた『マルコ福音書』には、「2人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。」(11・7)と記録されている。マタイの後に書かれた『ルカ』は、「そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。」(19・35)と記している。

 キリスト教の信仰の最重要点とも言える主イエスの復活についても、4福音書の記述は一致しない。主イエスが十字架についた後、主イエスは墓に収められたが、日曜の朝、『マルコ』では、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメ(主イエスの妹)がそろって墓に行き、そこで白い長い衣を着た若者に会う。若者は婦人たちに向かって「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。と記されている。そして、最も古い『マルコ』の写本は、ここで終わっているのである。つまり、主イエスが復活した話は後代の加筆で、聖書でもここから先の話は〔 〕がされて、そのことが明記されている。その後代の加筆の中で、主イエスは復活してまずマグダラのマリアに御自身を現され、その後に主イエスと一緒にいた人々のうちの2人に主イエスは別の姿で御自身を現され、その後に11人が食事をしている時にイエスが現れた、と書かれている。
 『マタイ』では、マグダラのマリアともう1人のマリアが墓に行くと、大地震が起こり、主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座り、「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体のあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登り、そこでイエスに会った。
 『ルカ』によれば、婦人たちがそこに着いた時には、すでに石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た2人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、2人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」そこで婦人たちは、墓から帰って、11人とほかの人に一部始終を知らせた。それは、、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわごとのように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって、墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。その後、イエスは2人の弟子に現れ、2人がエルサレムに戻ってみると、11人その仲間が、主が復活してシモンに現れたと言っており、そういうことを話しているとイエスがそこに現れた。
 『ヨハネ』では、日曜の朝、マグダラのマリアだけが1人で墓に行き、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、主イエスが愛しておられたもう1人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。2人は一緒に走ったが、もう1人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は中に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。それから、先に墓に着いたもう1人の弟子も入って来て、見て、信じた。それから、この弟子たちは家に帰って行った。マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た2人の天使が見えた。そして後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。イエスは言われた。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あばたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを告げた。その日の夕方、ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた弟子たちの所にイエスが現れて、手とわき腹を見せた。トマスはその時いなかった。そして「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは信じない。」と言った。8日後、弟子たちとトマスが一緒にいた時、イエスが現れ、トマスに言った。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言った。この有名なトマスの逸話は『ヨハネ』にしか登場しない。

 さて、問題なのは、この事実関係の著しい違いである。4つの福音書に書かれている事実関係がここまで異なると、仮に裁判では証拠として採用されない。つまり、「事実」としては認定されない。証拠価値がないのである。
 この部分に限らず、4福音書の記事には違いが多い。違っていても、キリスト教徒は「信じる」。違っている記事の中のどれを信じるか。違っていても、どれも信じるのである。そうなると、福音書に記載されていることが「事実」であるかどうかは、もはやどうでもいいということになる。
 しかし、「求めよ。そうすれば与えられるであろう」と言われた主イエスを信じるならば、こうした矛盾に目をつぶってしまい求めることを放棄するのではなく、求めて追及してこそ、神を見いだすことができるはずである。そのためには、盲目にならず目を開き、耳をふさがず耳を開いて、事実を精査する必要がある。事実だけが「証(あかし)」としての価値を持っているからである。「神の証し人=主イエス」の、命がけの証しをわたしたちは見いだし、真の主イエスの御姿を、聖書に覆われた封印をはがして、見いだす必要がある。それを見いだす者、すなわち求める者に、神は蛇を与えはしない。イエスを与えられる。求めようとしない者に、蛇は忍び来るのである。
 実は、復活したイエスの顕現を最初に記録したのは福音書ではなく、紀元54年頃にパウロが書いた「コリントの信徒への手紙」である。この手紙には、主イエスはまずケファ(シモン・ペテロ)に現れ、その後12人に現れ、ついで500人以上もの兄弟たちに同時に現れ、次いでヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に自分に現れたと書いている。パウロは本当は復活の主イエス(肉体を持った主イエス)に会ったのではなく、単に「幻」を見たのであるが、故意にそれを復活の主イエスを見た人々の体験と同一視させている。
 しかし、パウロが見たと主張している「幻」は、明らかに復活のイエスではない。「幻」であるかぎり、それが主イエスであるという保証もない。さらに、なぜ主イエスはパウロには肉体をもって現れず、「幻」で現れたのかという疑問が残る。
 福音書の書記の中で、ルカは異邦人であった。ルカはローマ主義を推し進めており、彼にとっての英雄パウロはローマ市民であった。ルカはパウロが推し進めた非ユダヤ的なキリスト教を擁護し、パウロと共にローマを中心とした異邦人のためのキリスト教を構築していった。主イエスが断罪される裁判の記述においても、ルカはローマ総督ピラトを分別ある公平な統治者として描いている。そして、主イエスを断罪したローマをかばうために、主イエスは死によって人間の罪をあがなったという、パウロの教えを挿入した。そして、主イエスの磔刑に関わったローマ兵たちに対し、主イエスが「父よ、彼らをお赦しください」と叫んだことになっている。ルカは終始、パウロ擁護、ローマ擁護の視点で記述している。それはルカが書いた『使途言行録』も同じである。しかし、それは当然のことであった。なぜならば『ルカ福音書』も『使徒言行録』も、そもそもルカ自身が記しているように、『敬愛するローマのテオフィロ様への献呈文』の上巻と下巻なのである。ルカは歴史を忠実に書いているのではない。他の福音書と同様の目的や視点で書かれたものではないのである。
 福音書研究家の間では近年、マタイやルカは『マルコ』の主イエス物語に加えて、主イエス語録の中からアレンジしたものをそれぞれ挿入していると指摘されている。こうした研究が、「歴史のイエスの実像は、教会が描いてきたものとはまるで違うものであった」と指摘していることは、それが18世紀以来の学問的な手続きを踏んでいる研究の成果であるだけに、貴重である。こうした研究者の努力の方が、もしかしたら盲目の信徒よりも、真実を見いだし得るのかも知れない。主イエスは言われた。「気をつけて、目を覚ましていなさい。」と。

 聖書には誤りが多いだけでなく、書記の手による偽り、つまり「改ざん」も多い。そのことは、聖書の中で神ご自身が指摘しておられる。
 
 「どうしてお前たちは言えようか。『我々は賢者と言われる者で、主の律法を持っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした。」(エレミヤ8・8)
 

 預言者エレミヤは祭司ヒルキヤの子で、祭司ヒルキヤはユダ王国のヨシヤ王のときに主の神殿で律法を発見した大祭司であった。ヨシヤ王の前王アモンやその前のマナセ王の時代は主なる神への信仰を捨てて偶像を崇拝していた時代で、そのために国は疲弊していた。大祭司ヒルキヤは主の神殿で発見した律法をヨシヤ王の書記官に渡し、書記官はそれをヨシヤ王に報告した。ヨシヤ王は、この律法について主の御旨を尋ねに行けと命じ、大祭司ヒルキヤとヨシヤ王の側近たちは預言者女預言者フルダのもとに行った。女預言者フルダは、ユダ王国は他の神々に仕えたので律法に記されている災いを下す、しかしヨシヤ王がへりくだったので神はその願いを聞き入れ、ヨシヤ王はその災いを見ることはないと告げた。そこでヨシヤ王はユダとエルサレムの長老を集め、律法を読み聞かせ、それを守ることを誓わせた。そして、律法の書に書かれているとおり、エジプトから導き出された主なる神がそう命じたと書かれているように、主なる神に焼き尽す献げ物をささげ、焼き尽す献げ物の肉を、いけにえの肉に加えて食べた。
 他の神々に仕えて偶像崇拝していた時代から、律法に立ち帰ることは、良いことのように思える。ところが、主なる神は大祭司ヒルキヤの子エレミヤを預言者として立て、父ヒルキヤが見つけた律法の書について、こう言われたのである。

 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの焼き尽す献げ物の肉を、いけにえの肉に加えて食べるがよい。わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽す献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」(エレミヤ7・21〜23)

 主なる神は、人々がエレミヤが伝える主の言葉に聞き従わないだろうとも語られ、そのとおりに人々は聞き従わなかった。このことは、聖書が啓示の書であると盲信する教会には、重大なことである。特に、律法を捨てたパウロに従う教会において、主イエスの「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ5・17〜20)

 主イエスが言われた「律法学者やファリサイ派の人々の義」とは律法を守ることである。主イエスは人々に、その義にまさった上で、つまり律法をすべて守った上で、彼ら以上でなければ天国に入れないと言われたのである。そして、自ら律法を破り、そうするようにと人に教えている教会は、天国で最も小さい者と呼ばれるどころか、天国に入れないと言われているのである。
 主なる神が、ヒルキヤが神殿で見つけた律法の書の不完全を明らかにされていることと、主イエスが言われたこの言葉は一見、矛盾しているように見える。しかし、そうではない。主イエスは、ヒルキヤが見つけた律法の書のことではなく、本物の完全な律法のことを言われているからである。なぜならば、主なる神の言葉であり、モーセに現れた「わたしは在る」という者である主イエスご自身が、モーセに律法を伝えた本人であるからだ。つまり、主イエスに従おうとする者は誰でも、主イエスが語られた本物の律法を見つけ出さなければならない。どこから見つけ出すのか。律法と預言者の書からである。主ご自身が、預言者をとおして律法の誤りを但し、律法の真実を語っておられる。ゆえに主イエスは、律法と預言者を完成させるために来たと言われたのである。
 主イエスが言われた「律法」とは、人間の手によるモーセ五書のことではない。神の言葉である主イエスご自身が、モーセに語られた本物の律法のことである。

 さて、偽る筆をもって書かれたのは律法だけではない。
 たとえば新約聖書の『マルコ福音書』の冒頭に、こう書かれている。「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。“主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。”』(マルコ1・2〜3)。しかしながら、この引用部分は『イザヤ書』とはまったく関係がなく、『出エジプト記』(23・20)と『マラキ書』(3・1)を組み合わせたものなのである。このマルコの誤りに最初に気づいたキリスト教徒は、この部分を改ざんして「預言者たちの書にこう書いてある・・・」と修正した。そしてさらに、この修正部分に気づいた後のキリスト教徒が、福音書が改ざんされたものであることが発覚しないように元に戻したという経緯をたどっている。
 『マタイ福音書』の24章・36節も、有名な実例である。そこでイエスは終末の時を預言し、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存知である」と言っている。後に主イエスを神としたキリスト教の書記たちは、全知全能であるはずの主イエスご自身がそれを知らないという訳にはいかないという矛盾に気づいた。そして一部の書記は「子も」という一語を削除したのである。
 また、次の部分も有名である。「また、誰も、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を破って流れ出し、皮袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方が良い』と言うのである。」(ルカ5・37〜39)。古いものの方が新しいものより良いということは、キリスト教よりユダヤ教の方が良いということになってしまうと危惧したキリスト教の書記は、最後の一文を削除したのである。