封印の福音書が解明した真相


 4つの福音書が「正当な聖典」(正典)として新約聖書に組み込まれたのは、主イエスの十字架後数百年も経った後のことで、それ以前は判明しているだけでも50種類ほどの福音書がキリスト教徒たちによって採用されていたことが知られていて、そのうちの20の福音書が現存している。ところが、こうした多数の福音書は、4福音書の正典化の影でキリスト教の歴史から隠され、封印されていた。ところが19世紀に入って、ほとんどあり得ない奇蹟のような出来事が起ったのである。
 1886年、フランスの考古学者たちがエジプトの上ナイルのアフミムという町に近い古代墳墓から『ペテロ福音書』を発見した。調べてみると紀元130年頃に羊皮紙に書かれたものであることが判明した。この『ペテロ福音書』には、4福音書と異なった記載が29ケ所もあった。一例をあげると、イエスを処刑に追いやったのはユダヤ人でも総督ピラトでもなく、ヘロデだという。そして100名の兵士を指揮してイエスを十字架にかけた百人隊長の名を、ペトロニウスと記している。

 この発見に続いて1945年12月、さらにエジプト南部のナグ・ハマディという小さな村の近郊の洞窟から、素焼きの壺に封入された4世紀のものと思われる52編にも上るパピルス文書が発見された。発見したのは村の近くで肥料用の腐植土を掘っていた農夫たちである。壺の中には、キリスト教史から抹殺された『ペテロ福音書』『トマス福音書』などの福音書の現物をはじめとする数多くの文書が入っていた。これが20世紀最大の発見と呼ばれる『ナグ・ハマディ文書』である。
 『ナグ・ハマディ文書』は、発見から32年後の1977年に原典のファクシミリ版の公刊が完結し、1979年にエレーヌ・ペイゲルス博士(プリンストン大学宗教学部教授)が『グノーシス諸福音書』(邦題『ナグ・ハマディ写本』)を出版して広く一般に知られるようになり、1998年に岩波書店から邦語版(全4刊)が出版された。

 新しい発見はさらに続いた。1947年には、イスラエルのキルベト・クムランの周辺の洞窟内で、500余りの羊皮紙とパピルスが発見された。現在では『死海写本』の名で広く知られているものである。

 これら一連の発見と、その後の研究により、隠されていた様々なことが浮かび上がってきた。そして、綿々と受け継がれてきた聖書の正典、信条、教会組織に、重大な問題が投げかけられたのである。
 ナグ・ハマディで発見された『トマス福音書』などは、『ヨハネ福音書』と似た要素を併せ持ちながらも、まったく内容を異にする部分を持っており、『ペテロ福音書』や『マグダラのマリアの福音書』は、主イエスに関する極めて重大な事柄を記述していた。このことは、主イエスの処刑後、残された弟子たちがそれぞれに主イエスという存在を必死に解明しようとし、それぞれの解釈を生み出し、その結果、それぞれが主イエスの活動や語録を編纂した数々の福音書が作り出されたことを示していた。
 これらの福音書は、それぞれ各派(マルコ派、マタイ派、トマス派など)の思想や解釈を具現化するものとなっていた。4福音書が正典化される以前には、ひとくちに「キリストの信徒」と言っても、その思想は百花繚乱の状態にあったことが新たに分かったのである。
 発見された資料群をすべてそのまま鵜呑みにすることはできないが、これらの資料によって新約聖書の4福音書に記載されている主イエスの言葉が本物であることが裏づけられたり、イエスの兄弟であり後継者でもあるヤコブの考えを扱った資料で正当性が立証されれば安心して受け入れられる、といった新たな局面が生まれた。たとえば、主イエスの言葉の中で「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろイスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10・5〜6)は、発見された資料群の内容と完全に一致しているので、イエスの実際の言葉そのままと信じることができる。それに対し、同じ『マタイ福音書』に記されている主イエスの別の言葉、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・」(マタイ28・19)は、完全な創作である可能性が高い。異教徒に伝道せよという指示は、主イエスの考えにも、発見された資料群の内容にも反するし、「父と子と聖霊の名によって」という言葉は、長い年月を経た後にキリスト教の神学理論が確立してから使われるようになったものだからである。

 これらの資料群の発見によって裏付けられた、もう一つの有力な事実は、主イエスの真の後継者が主イエスの弟ヤコブだったことが判明したことである。主イエスの十字架と復活の後、弟子たちの指導者として主イエスの跡を継いだのは誰だったのかについては、新約聖書にも、初期キリスト教の教父の著作や外典福音書にも、その手がかりを裏付ける決め手となる証拠がある。
 『トマス福音書』や『クレメンス文書』には、主イエスがヤコブを後継者に指名したことが言及されている。また、キリスト教初期の教父で、著名な歴史家エピファネスによれば、ヤコブは「地上の王座を主からゆだねられた最初の人物」である。また、アレクサンドリアのクレメンス(150年〜215年頃)は、使徒たちによってヤコブが選出されたとしている。
 新約聖書には、主イエスが弟子たちに「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と尋ね、ペトロがイエスに「あなたはメシアです」と答える場面がある。『マタイ福音書』では、そのとき主イエスがペトロに対して「あなたはペトロ(岩の意)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16・18〜19)と語ったとされる。しかし、『マルコ福音書』や『ルカ福音書』には、主イエスがそのようなことを語ったとは全く記されていない。
 カトリック教会はペトロが殉教したローマの墓所の上に建てられ、これがローマ・カトリックの聖地バチカンとして主イエスの正当な後継を任じてきた。しかし、新約聖書では主イエスと12弟子が参詣したのはエルサレムの神殿であって、主イエスの弟子たちと信徒の指導者はエルサレム教会のヤコブであったことが記されているのである。
 カトリック教会は、『マタイ福音書』に挿入された創作によって、キリスト教の拠点をローマに変更してその正当性を確立し、ヤコブを「小ヤコブ」と呼んで軽んじてきた。そうすることで自らを正当化しようとしたのである。また、主イエスの母マリアは「永遠の処女」であり、主イエスの他に子供はいないというのがカトリック教会の主張だが、新約聖書には主イエスにはヤコブ、ヨセ、シモン、ユダ・トマスと、さらに何人か名前の分からない姉妹がいたことが記されている。
 そして、新約聖書の『ヤコブの手紙』を読むと、当時の主イエスの弟子たちや信徒らの信仰が、ことごとくパウロやキリスト教会が展開するキリスト教信仰とは相反するものであったことが分かる。

 主イエスの12使徒ではなかったパウロは、『ローマの信徒への手紙』の中で、自らを「わたしは異邦人のための使徒」(11・13)と称し、「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされる」(2・13)としながらも、一方では「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」(3・20)と矛盾する詭弁を弄し、「ただキリスト・イエスの贖いの業(わざ)を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(3・24〜25)などと、主イエスの教えとは異なる独自論を展開し、律法を行うことではなくイエスの犠牲を信じることによって救われるという新しい信仰を打ち出した。
 パウロはまた、この自論を証明するためアブラハムを引き合いに出し、アブラハムは行いによるのではなく信仰によって義とされたとし、「実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです」(4・15〜16)、「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです」(5・13)、「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました」(同5・20)、「律法がなければ罪は死んでいるのです」(7・8)と言った。しかし主なる神が与え、主イエスが一点一画も消え去ることはないと断言された律法を否定することは、主なる神と主イエスへの反逆にほかならない。律法は、読めばすぐに分かるように人間が互いを害せず平和に生活するために守るべき当たり前のことが記されているものであるが、パウロにとっては律法を行うことは難しいことだったのであろう。律法に違反する罪から逃れたかったパウロの新しい独自信仰は、律法を遵守して完全な者になれと命じた主イエスの教えと真っ向から対立するものである。
 一方、主イエスの正当な後継者であったヤコブは、「離散している12部族の人たちに」宛てた手紙(『ヤコブの手紙』)で、「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です」(1・25)と記し、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。信仰はそれだけでは死んだものです。」(2・14〜17)とし、アブラハムの信仰に触れて「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。(中略)人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」(2・21〜24)と、パウロの信仰の誤りを指摘している。

 ところが現在のキリスト教で「キリスト教の父」と呼ばれているのは、主イエスでもヤコブでもなく、ペテロでもなく、パウロなのである。
 「律法の完成者たれ」と教えた主イエスの教えを無視し、主イエスを十字架の人身御供として仰がせ、異教徒に迎合したパウロ創設の「キリスト教」は、異教徒ローマ人を喜ばせ、教会をそれまでの迫害から「地の王」に転じさせた。主イエスの信徒たちを迫害したローマ帝国が遂にキリスト教に屈し、教会が地上の支配者になったという信仰の物語は、実際には迫害に屈したパウロが真の信仰と行いを捨て、異教徒に迎合した結果でしかない。
 パウロは、ファリサイ派であり、ローマ市民であり、ヘロデ王家の一員であり、生前の主イエスには従わず、生前の主イエスから注目されず、復活して弟子たちに現れた主イエスにさえ会ったこともなく、12使徒でもないのに、「キリスト教の父」となった。彼が「アリストブロ家の人々によろしく。わたしの同胞ヘロディオンによろしく」(ローマ人への手紙16・10〜11)と書いたアリストブロはヘロデ=アグリッパ1世の兄弟であるカルキスのヘロデの息子である。
 ところが、そのパウロがイエスの十字架後しばらくして突然変異したのだと、パウロの親友ルカは言う。ダマスコへの途上、突然、天からの光がパウロの周りを照らし、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」とのイエスの声を聞いて回心したのだという。サウル(サウロ)というのはパウロの本名で、かつてダビデに嫉妬して殺害しようとした、2枚舌で有名な悪名高いイスラエルの初代王の名と同名である。サウルのこの体験が事実だとすれば、復活した主イエスは弟子や信徒たちには肉体を持った姿で現れたが、パウロにはそうではなかったという「特例」だったことになるが、彼は回心したとして自ら名をパウロと改めたという。
 その後3年におよぶアラビアでのパウロの行動は不明だが、3年後にエルサレムでヤコブとその信奉者に加わったらしい。ところがパウロは「ギリシャ語を話すユダヤ人」と議論したことにより、彼らから命を狙われ、タルソスへ逃れたという。その頃、ペテロは方々を巡り歩き、病人を癒したり、死者を生き返らせたりしていた。また、ステファノ事件以降、迫害のために散らされていた信徒たちが、フェニキア、キプロス、アンティオキアで主イエスの「良い知らせ」(=神の国は近い)を伝え、多くの人々が信徒になっていたので、エルサレムからバルナバが派遣されて彼らを指導していた。あるときバルナバは、タルソスに逃れていたパウロを見つけ出してアンティオキアへ連れ帰った。バルナバによってアンティオキアへ連れ戻されたパウロは、そこで全く新しい教えを説き始める。その新しい教えは、主イエスの後継者ヤコブら12弟子たちの教えとは根本的に違っていた。そのことは新約聖書その他の資料により明らかにされている。パウロは、ステファノ事件以降、迫害のために散らされていた人々が開拓した地に、異なる教えを持ち込み、やがてバルナバやマルコと意見が激しく対立して、別行動をとるようになった。実際にはパウロは教会から追放され、ヤコブの信任状を持つ正当な伝道師たちの布教活動に徐々に押されていったようで、パウロは『コリントの信徒への手紙2』(13.1)で、この信任状について憎々しく記している。
 ところが突然、パウロに思わぬ風が吹く。ローマ皇帝ウェスパシアヌス(紀元69〜79年)が「エルサレムのイエスの後継者たちを1人たりとも生かしておくな」との命令を出し(ヘゲシプス『回顧録』)、エルサレムでヘロデ王がヤコブを殺害し、ペトロを投獄したのである。イエスの後継者であるエルサレムの弟子・信徒たちは、徹底的に弾圧され、死へと追い立てられた。
 パウロにとって、状況は一変した。パウロはギリシャ人ユダヤ教徒のテモテを通じてギリシャ人ユダヤ教徒たちと親交を持つようになり、ヘロデ大王の娘ドルシラ(ローマ市民)を自らの信徒とし、ルカの『使徒言行録』によれば「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられていた」ので、マケドニアに出発した。その後、エルサレムに戻り、神殿にいたときにパウロは逮捕され、カイサリアのローマ総督フェリクスのもとに護送され、2年間の手厚い快適な「牢獄生活」を送った。ローマ総督フェリクスがドルシアの夫だったからである。
 パウロがイエス本来の教えとかけ離れた教えを説き、律法を否定し、反イスラエルを説き、自ら「異邦人への使徒」と宣言し、「合法的な」ローマ支配に従えと説いたのも、こうした背景による。このようなパウロの教えが、エルサレムでの弾圧の中でイエスの教えを守り続けていたイエスの弟子や信徒らとぶつかるのは、当然のなりゆきであった。
 パウロの手紙には、自分が嘘つき呼ばわりされ、使徒ではないと非難されたことに対する憤慨が満ち溢れている。主イエスの直弟子たちによる文書『ペトロスの宣教』には、パウロを「律法の背教者」、「邪悪と嘘の熱弁者」、「イエスの真理の教えをゆがめる者」と記されており、パウロのダマスコ途上での回心を「悪魔が見せた夢や幻」としている。これに対しパウロは、「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(ガラテヤの信徒への手紙5・4)と書いている。
 しかし主イエスは、律法のうち、「第1の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第2の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この2つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12・29〜31、マタイ22・37〜40)と教え、ファリサイ派の人々と律法学者に対して、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。」(マルコ7・8〜9)としている。これに照らすならば、パウロこそが主イエスと縁もゆかりもない者ということになる。
 主イエスはまた、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で最も大いなる者と呼ばれる。」(マタイ5・17〜19)、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」(ルカ16・17)とも教えている。
 どの福音書からも、主イエスが律法をないがしろにしていないことは明らかである。主イエスはむしろ、当時のユダヤ人たちが誤った律法の解釈や言い伝えによって律法をないがしろにしていることを、とがめたのである。そのことは、安息日についての議論にも顕著にあらわれている。「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎(な)えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』 彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(マルコ3・1〜6)。
 主イエスと弟子たちは、律法に定められている通りに十戒を遵守し、律法に定められている通りに祝祭の度に神殿に参詣したばかりでなく、毎日のように神殿で礼拝していたことが、新約聖書に記されている。

 パウロはその後、ローマに向かったと、ルカは『使徒言行録』に記している。教会は、パウロはローマで迫害を受け66年頃に斬首されたと主張するが、新約聖書のどこにもそのような記述はないし、その他の証拠資料もないため、証拠はない。ローマによるエルサレム陥落を生き残り、『ユダヤ戦記』(7巻)、『ユダヤ古代誌』(20巻)などを著した著名な歴史家フラウィウス・ヨセフスは、ユダヤのゼロテ派の軍が66年にエルサレムを占領したときのことをこう書いている。

 「有力者たちは、騒ぎが激化し、手に負えなくなっている(中略)と悟ると、自分たちが助かるため、使者を送った。1組は(中略)フロロス(ローマの代官)へ、(中略)もう1組はアグリッパへ。そのなかには著名な王族出身者、すなわちサウロや、アンティパス、コストバロスも含まれていた」

 ヨセフスが「ケスティオスは自分たちの要望で、サウロとその仲間をアカイア滞在中のネロのもとに送り、自分たちの苦境を説明させた」と言及しているように、サウロは代表団の一員として、当時アカイアに滞在していたコリントの皇帝ネロのもとに派遣された。『フィリピ人への手紙』の中でパウロは、ローマ皇帝ネロの相談役であるエパフロディトも回心させたと書いているので、代表団にとってパウロはこの上ない適役であり、ヨセフスの記述は信頼できる。
 この会見の後、ローマ皇帝ネロはウェスパシアヌスを派遣し、4年におよぶ戦いの末、エルサレムは包囲され、ローマ軍の手によって陥落し、前代未聞の大虐殺が行われ、神殿も徹底的に破壊された。イエスの直弟子と信徒らにとって、すべては帰らぬものとなり、パウロの信者がローマやギリシャに地盤を築き、イエスの真の教えを証しする者たちは各地に散らばってしまった。
 イスラエルとエルサレムは壊滅し、ペテロとヤコブは殉教し、パウロは姿を消してしまった。後に残された各地の小集団は、それぞれが伝え聞いた「良い知らせ」を守っていた。初期の教会は、「神の教え」と呼ばれる教義書『ディダケー』を共同体の規範として用いており、その文章が共同体の手紙にしばしば引用されているが、『ディダケー』の内容は死海文書の中に見つかったエッセネ派の『共同体規則』に酷似している。また、エルサレムの初代「共同体」はエッセネ派と同じく、「柱」と呼ばれる3人の長老が導いた。3本の「柱」とは、イエスの兄弟ヤコブと、ペトロ、ヨハネである。
 しかし、70年〜80年の歳月を経て、大ローマ帝国の首都ローマの異邦人キリスト教共同体が徐々に優位を築いていき、聖職者を中心とする組織をもつ支配的な「教会」が徐々に現れた。200年以上たつと、ローマの共同体は全キリスト教徒の最高位に立つことを主張するために、「ペテロが教会の礎である」という伝説を用い、そのペテロがローマで殉教したことを理由に、ペテロの墓の上に教会を建て、ペトロが最初のローマ司教だとした。これが現在のバチカンのサン・ピエトロ(聖ペテロ)寺院である。
 ローマ帝国に迎合した新しいキリスト教を奉じるローマ教会と、キリスト教の勢力を利用して皇帝の地位を確保しようとしたコンスタンティヌスが手を組み、コンスタンティヌスが即位すると、キリスト教はローマ帝国の公認宗教となる。318年、弾圧を耐え抜いた主イエスの直弟子たちの代表団が、新たに教皇の住まいとなったローマのラテラノ宮殿を訪れ、シルヴェステル司教(教皇)に謁見した。代表団は、ローマではなくエルサレムこそ教会の中枢を置くにふさわしい場所だと主張した。そしてエルサレムの司教を継承するのは、当然、主イエスの教えの継承者であると要求する一方で、アレクサンドリア、アンティオキア、エフェソスなどの司教たちとも強調していくと述べた。しかしシルヴェステルは、イエスの後継者にではなく、ローマ皇帝コンスタンティヌスに従い、彼らの要求を受け入れなかった。こうしてイエスの教えは、ローマ帝国の要望に沿う教義にとって代わられたのである。キリスト教の救いの力を有するのは、キリスト教にとって、主イエスではなく、ローマ皇帝となったのである。
 主イエスの教えとは明らかに異なるローマ教会を創設するに当たり、コンスタンティヌス帝の司教たちは独自のルールを導入した。その1つが独身主義である。そして、コンスタンティヌス帝によって開催された325年のニカイア公会議において、ローマ教会の聖職者の権力が強化されると、他のキリスト教は異端として禁止された。さらに431年、皇帝テオドシウス2世が開催したエフェソ公会議で、アレクサンドリアのキュリロスと呼ばれる人物がなした説明が正統信仰として決議され、神の母マリアと呼ぶことが公認され、教会に十字架が持ち込まれた。この後、12使徒の教会は徹底的に迫害され、壊滅させられる。ローマ教会は、ローマ皇帝から授かった地上の権力を行使し、ヨーロッパ全土で大量のイエス信徒を殺戮し、イエスの直弟子たちが開拓したエフェソ、スミルナ、ティアティラといった東方の諸教会を追放し、壊滅させていったのである。
 ちなみに『ヨハネ黙示録』はエフェソ、スミルナ、ティアティラといった「アジア州にある7つの教会」に向けて書かれたもので、そこにローマ教会は含まれていない。


 さて、ローマ教会が主イエスの後継者としたペテロについてその根拠としている、イエスがペテロについて語ったとされる「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」という言葉は、マタイ福音書が書かれたギリシャ語では、「つなぐ」と「解く」の意味が明確でない。
 ヘブライ語では「つなぐ」とは「縛る」「捕らえる」「禁ずる」という意味であり、「解く」とはその逆の意味、つまり「解く」「解放する」「許す」という意味なのである。そしてこれは、律法の解釈について使われる言葉で、例えば、ある人の行為について、その行為が律法に反しているか、反していないかを、祭司が律法の解釈によって判断を下す権威を持っていた。祭司による律法の解釈によって、禁じられることを「つなぐ」(つまり罪を犯したので捕縛すること)と言い、許されることを「解く」(つまり解放されること)と言ったのである。主イエスがペテロに与えた権威は、後継者としての権威ではなく、「天の国」すなわち主イエス集団における祭司の権威なのである。
 主イエス集団を政治的に率いる「主の民の王(もしくは総督)」の役割は、主イエスと同じくユダ族の血統を継ぐ弟ヤコブが引き継いだ。主イエスは主の民の王であり、預言者であり、大祭司でもあるので、その一部分をそれぞれペテロとヤコブが継いだわけである。主イエスの預言者としての役割を継いだのはヨハネである。
 主イエスが十字架についた後は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人が一体となって指導し、3人を中心とする12使徒が主イエス集団(天の国)を率いた。このことを理解して福音書を読むとき、主イエスの言葉や弟子たちの言葉が新たな息吹をもって響いてくる。主イエスが十字架についた後のペテロの行動は、まさしく天の国の祭司としての行動であったし、ヤコブの行動は王としての主イエスの後継行動であり、ヨハネは預言者としての役割を果たしている。
 ところが、王でもなく、祭司でもなく、預言者でもないパウロがローマに新しいキリスト教を作り、そのローマ教会が後の全キリスト教の礎となった。

 しかし、このローマ教会から全世界に広まるキリスト教会こそが、終わりの日に全世界を支配する偽キリスト666の獣にまたがる「大淫婦バビロン」の正体であることを、ヨハネ黙示録は記しているのである。そして、この聖書の封印は、終わりの日のはじまりに明らかにされることもまた、記されている。