誰が「キリスト教」を作ったか


 西暦66年にローマ皇帝ネロの命令によりエルサレム制圧のため赴任した軍司令官ウェスパシアヌスは、70年にエルサレムを陥落させ、ローマ皇帝の帝位についた。エルサレム陥落により、12使徒の原始キリスト教会は分散。249年に即位した皇帝デキウスの時代には全国民がローマの神々を礼拝することを義務付け、それに従わなかった12使徒の原始キリスト教会は徹底的に迫害された。しかしパウロのローマ教会だけは、ローマの神々を礼拝することに寛容であったため、勢力を広めていった。284年に即位した皇帝ディオクレティアヌスの時代には、ローマ教会以外の、12使徒の原始キリスト教会は徹底的に迫害され、殺戮された。こうして、12使徒の原始キリスト教はローマを脱出して荒れ野に逃れ、地下にもぐり、正しい信仰を密かに受け継ぐようになる。12使徒の原始キリスト教会が荒れ野に逃れたことにより、ローマに寛容なローマ教会は着々と勢力を広げ、ローマ帝国の中で一大勢力となっていった。
 
 「最後の晩餐」をモチーフとした聖体拝領への参列者に対して、信仰告白が強要されるようになったのは、4世紀のローマ司教たちが作り出したキリスト教信条(ニカイア信条)による。そこでは、「イエスは神のひとり子、永遠なる父の子である」とか、「聖なる公同かつ使徒的な教会を信ず」と誓う必要が加わった。
 エイレナイオスの意図はキリスト教会で勝利を収めた。しかし、その理由は神学論争に勝利したからというよりは、異教徒のローマ皇帝コンスタンティヌスにそれが必要とされたからであった。
 パレスティナの司教であったカエサレアのエウセビオスは『教会史』にこう記している。312年10月28日、神は異教徒である皇帝コンスタンティヌスの見上げる空にキリストの徴(しるし)を現出せしめる奇蹟を起こし、もって彼を信服せしめた。さらにそれに続く数年の内に、コンスタンティヌスはキリスト教徒を容認し、さらにその支援者となった。だがこの現実的な軍団長は単に、当時の帝国で最大かつ最も統制の取れた集団に認可を与えたに過ぎなかった。コンスタンティヌスはそれを「合法的かつ至聖なるカトリック教徒」と呼んだ。
 西暦312年10月、ローマのコンスタンティヌス帝が対立帝マクセンティウスに勝利し、翌313年6月、東の正帝リキニウスとミラノで会見し、「ミラノ勅令」を出してキリスト教信仰の自由を公認した。ただし公認とは、公認された多くの宗教の一つということで、キリスト教が国教となったわけではない。ユダヤ教や、ヨーロッパ各地の偶像崇拝も公認されたのである。このミラノ勅令には、ローマ皇帝が帝国の安泰と秩序を願って信仰の自由を認めたことがはっきりと述べられており、コンスタンティヌスの政策的意図であることが明確にされている。すでにローマ帝国全土に張り巡らされていた組織と、数百万人に膨れ上がっていた信徒を持っていたキリスト教は、コンスタンティヌス帝にとって政策上の格好のパートナーであった。
 コンスタンティヌスはローマに入城するために、都の前を流れるテレベ川にかかる橋でマクセンティウスとの決戦に挑んだ。決戦前にコンスタンティヌスは、天空に十字架の幻を見て「これにて勝利せよ」とのお告げを受けたという。そしてその夜、彼は夢の中でも十字架を見たという。彼は夢のお告げに従って十字架を作り、それをかざしてマクセンティウスとの決戦に臨む。マクセンティウスはテレベ川で溺死し、コンスタンティヌスがローマ帝国の新皇帝になった。コンスタンティヌスの母ヘレナは熱心なキリスト教徒で、巡礼のためにパレスティナに出かける。そして、そこに足を踏み入れると、イエスが掛けられた十字架を探す。しかし、なかなか見つからず、その場所を知っているというユダという男が召し出される。彼は十字架の在りかを明かすことを頑強に拒んだため、涸れ井戸に吊るされたが、7日目に白状し、イエスが掛けられた十字架とその傍らで2人の強盗が掛けられた2本の十字架がゴルゴダの丘に造られた女神ヴィーナスを祭った神殿に隠されているという(当時のエルサレム神殿はローマ神殿となっていた)。そしてゴルゴダの丘から3本の十字架が発見された。しかし、イエスが掛けられた十字架がどれだか分からない。物語によれば、そのとき死んだ若者の葬列が通りかかり、3本の十字架が順に若者の上にかざされ、3番目の十字架が若者の上にかざされると、何と彼は甦ったという。そして、イエスが掛けられた十字架はこれだ、ということになったのだという。
 この、コンスタンティヌスの夢のお告げと、母ヘレナの十字架発見という、2つの話を提供したのが、300年代の「最初のキリスト教史家」と呼ばれるカエサリアの司教エウセビオスと、コンスタンティヌス1世の息子クリスプスの家庭教師を務めたラクタンティウス、その他の何人かの教会史家である。
 ところが、エウセビオスの話とラクタンティウスの話が、肝心な部分で食い違っているのである。エウセビオスによれば、コンスタンティヌス帝は戦闘前に空中に十字架を見るのであるが、ラクタンティウスによれば、そうではなくて夢の中でお告げを受けたことになっている。またエウセビオスによれば、コンスタンティヌス帝は十字架の印が入った軍旗を職人に作らせ、隊の先頭集団の旗持ちにそれを持たせたとされるが、ラクタンティヌスによれば、各兵士の楯にキリストの名前が刻まれたことになっている。その場合、全員がキリストを身に帯びる状態になるわけなので、各兵士は敵の剣に倒れることがあってはならないことになる。エウセビオスの場合だと、軍旗を手にした兵士だけは、倒れることはない。それに続く兵士たちの中に倒れる者がいてもおかしくはない、ということになる。いずれにせよ、コンスタンティウスの「十字架の幻」についての話は、同時代の「最初のキリスト教史家」の手による2つの異なる話が存在する。
 コンスタンティヌス帝の「十字架の幻」話を、与太話だとする学者も少なくない。この話は彼ら以降のキリスト教世界で広く伝えられたと想像されるが、エルサレムの主教キュロリス(315年頃〜387年)や、エウセビオスの『教会史』をラテン語に翻訳したルフィヌス(345年頃〜410年)、ミラノの司教アンブロシウス(334〜97年)、アウグスティヌス(354〜430年)らは、その著作ではこの十字架話にまったく言及していない。

 この話はコンスタンティヌス帝の創作であるとも考えられる。コンスタンティヌス帝はキリスト教を利用して分断されていた帝国を1つにしようとしたが、そのためには、自らはキリスト教徒にならなくても、キリスト教に理解ある皇帝であるという演出をしてみせる必要があった。現代では、そう考えるキリスト教学者も少なくない。
 エウセビオスは、その著作『コンスタンティヌスの生涯』で、ヘレナの聖地旅行についてかなりの紙幅を割いているが、彼女が発見したという十字架の木については何の報告もしていない。ヘレナが発見した十字架について最初に報告するのはソークラテース・スコラステティコスと、ソーゾメノスである。しかし、ソークラテースもその報告の中で「ここに書き記したものがうわさによるものにしか過ぎないことを認める」と書いているように、ヘレナの十字架発見については、当時からそれが本当にイエスの十字架であるかどうかは疑わしい、とする者が相当いた。現代科学では、イエスの十字架を特定することはほとんど絶望的に困難である。理由は、十字架刑がパレスティナにおいて頻繁に行われていたからである。エルサレムの土中には、何百、何千という十字架の木が埋まっていた。イエスの死から300年の長い年月が経っていたということは、イエス時代の十字架はすべて腐食して土に戻っていたと考えられるのである。もしヘレナが3本の十字架を発見したという報告が事実であったとしても、それは恐らく、たかだか10年か20年前に埋められた十字架であったと考えられる。
 ともあれ新皇帝コンスタンティヌスは、太陽神ミトラを崇拝する異教の伝統を維持していた首都ローマに、自らミトラ教の大神官としてその偶像崇拝を維持しながら、幾つものキリスト教会を建立した。ヴァチカンの丘の壮麗な聖ピエトロ寺院、エルサレムの聖墳墓教会もその一部である。 コンスタンティヌスは、自分の息がかかった人物をローマ教皇に任命し、自分にとって都合が悪い聖書の文言を削除させたり、歪めさせたりした。そして、自分の思い通りになるキリスト教の立場に立った数々の勅令や法令を出し、教会が祝うキリストの復活(イースター)をユダヤの過越祭からはずしてキリスト教独自のものとし、ローマ皇帝として初めて復活祭やクリスマスを祝った。彼は、
イエスの誕生日(クリスマス)をミトラ神の誕生祭である12月25日とした(354年にキリスト教は正式に導入した)。この日はバベルの塔を建てて神の怒りを買った反逆者ニコデモの誕生日であり、コンスタンティヌス帝が生涯を通して大神官を務めたミトラ神の誕生日である(ミトラ教はあらゆる宗教と習合することが特徴)。こうして日本における神仏習合のように、ローマ帝国でキリスト教と異教の偶像崇拝がますます習合していった。それはパウロ以来のキリスト教の当然の成り行きであった。

 ローマ帝国でキリスト教が公認されると、浮かび上がってきたのは、キリスト教の中に様々な教義、解釈があるという問題であった。コンスタンティヌス帝はニカイアに宗教会議を召集し、教会の教義論争に決着をつけ、いわゆるニカイア正統信教の確立に熱意を注いだ、とされている。しかしながら、コンタンティヌス帝は生涯、異教ローマ(ミトラ神を拝する偶像崇拝) 大神官の称号を維持し続け、死の床に至るまでキリスト教の洗礼を受けなかった。
 そもそもニカイア会議に至った経緯は、次のようなものであった。

 アレクサンドリアの司祭アリウスは、「神のみは始まりをもたずに存在する」との立場から御子の人性を強調し、「御子は父なる神の被造物であり、ただ聖霊によって父なる神の御子とされた」と主張してアレクサンドリア司教アレクサンドロスによって、321年に破門された。この
321年は、コンスタンティヌス帝の息がかかったローマ教皇が安息日を廃止し、日曜礼拝を導入した年でもある。ローマ教会は、神が岩に刻んで命じた十戒の2番目の法「偶像崇拝の禁止」を削除し、4番目の法「安息日」を「主の日(日曜日」に変更し、10番目の法を2つに分けて、新たな十戒とした。こうして教会は「法」を変えた。
 アリウスは有力な教会政治家の司教エウセビオスに助けを求めたので、教会全体を巻き込む論争になった。326年にアレクサンドリア司教となったアタナシウスを主導者とするアタナシウス派は、「キリストは父なる神の本質より生じたもので、御子は生まれたが造られたものではなく、父なる神と同質である」と主張し、アリウス派に反対した。キリストは神か人かという点については、旧約聖書には神は唯一の存在であると記されており、神の子であるキリストを神そのものと認めてしまうと大きな矛盾が起きるため、この問題は教会を2分する大問題となった。
 コンスタンティヌス帝は教会の指導層とのつながりを強め、手に負えないキリスト教諸派をひとつの構造体にするために、325年にニカイアに公会議(宗教会議)を招集し、キリスト教信仰の標準的定式を作らせた。この会議で「父(神)と子(キリスト)は同質である」ことが採択され、アリウスとその同調者の破門を決定し、アリウス派は追放された。アリウス派は、イエス・キリストが「父なる神」と根本的に同一であるなどというのは、あまりにも極端であり、かつ福音書の記述に反するのではないか、と論じた。しかし、議論が延々と続いていることに嫌気がさしたコンスタンティヌス帝は多数派を支持し、とりあえず議論を早く終わらせてしまえ、と促した。これは決定的だった。コンスタンティヌス帝が支持した以上、これに反論することはできなかった。こうして退席を選んだ少数以外の全員がそれに署名した。退席したのはアリウスと、最後まで彼に忠誠を尽くしたリビアの数名の司祭、そして2名の司教であった。
 最終的に、ニカイア信条は司教たちによって承認され、コンスタンティヌス帝に是認され、公式の教義となった。以後、すべてのキリスト教徒は、ローマ皇帝の承認する唯一の教会=カトリック教会に参加するために、これを受け入れねばならなくなった。この年、
過越祭も正式に廃止された。イエスの最後の晩餐は過越祭の晩餐であったが、この決定によりキリスト教では主イエスの正しい晩餐は行われることがなくなった。そして、安息日を守り、主の律法を守り、主の祭礼を行っていた主イエスの正当な弟子や信徒たちは、キリスト教会から追放されることとなった。
 ニカイア会議ではまた、
コーマ皇帝ユリウス・カエサルが制定したユリウス暦を取り入れることが決められた。復活祭は春分日を起点として定義されるが、ユリウス暦の春分日は3月21日なので、復活祭も3月21日にされた。ユリウス暦の春分日は、実際の春分日とは異なるが、教会はローマの暦に変更することを決めたのである。このユリウス暦は、太陽暦で、エジプトの太陽神崇拝やミトラ崇拝およびバベルの塔を建てたニコデモを起源とする。神の定めた「時」(月の運行によるイスラエル暦)をローマ教会=カトリックは変更したのである。

 ダニエル書7章の「いと高き方に敵対して語り、いと高き方の聖者らを悩まし、時と法を変えようとたくらむ」者は、それを実現した。ダニエル書9章に記載されている「油注がれた者(主イエス)が不当に断たれた後に、都と聖所を荒らし、いけにえと献げ物を廃し、憎むべきものの翼(ローマ)の上に座した荒廃をもたらすもの、主イエスの次にくる指導者」とは、ローマ・カトリック=キリスト教である。プロテスタントも、その教えと時と法を引き継いで今日に至っている。
 
 
 このニカイア信条が書かれるまでの300年近くの間、キリスト教諸宗派は様々なやり方で新参者を迎え、それによってキリスト教は、コンスタンティヌス帝にキリスト教を公認させるまでに強大な勢力になったのであるが、ひとたび公認されると、お決まりの内部統制が始まったのである。それまでキリスト教徒の多くは、自らを信者というよりも「探求者」すなわち「神を探求する者」と考えていたが、内部統制により教会の「信者」となるか否かを迫られることになった。それはすなわち、ニカイア信条を受け入れるか否かの選択であった。つまり、これ以降、キリスト教徒とは、ニカイア信条信者であるという意味に変質したのである。それ以外のキリスト教徒は、キリスト教徒ではなく異端者として追放されることになった。
 教会が異端者として追放したのは人だけではない。多くのキリスト教の文書、書簡、福音書が、ニカイア信条に合致しないために偽典、外典として追放された。司教たちがニカイアで会合する1年前、彼らが 異端宗派と見なす者たちに引導を渡す法律を制定しようとしたことがあったが、それに属する者は帝国内のキリスト教徒の半数以上に上ったという。皇帝はすべての「異端者と分離主義者」に、個人の住宅内を含むすべての場所での集会を禁じ、彼らの教会やその他の財産のすべてをカトリック教会に明け渡すよう命じた。日曜日がキリスト教徒の礼拝の日と定めたのは、このときのコンスタンティヌス帝の勅令である。安息日(金曜の日没〜土曜の日没)を遵守していた主イエスや使徒たちとは何の関係もない。つまり、キリスト教会は神と主イエスの教えに従わず、ローマ皇帝の命令に従う道を選択し、そのために神と主イエスの教えを改ざんすることを決定したのである。
 このニカイア信条は今日、プロテスト教会に置かれている『聖歌』の裏表紙に収録されていて、「使徒信条」というタイトルが付けられている。

 コンスタンティヌス帝が、このニカイア信条を作り、強制するに至るまでには、伏線があった。2世紀から4世紀の特定のキリスト教指導者たちが、多くの文書を拒絶し、その代わり『マタイ』『マルコ』『ルカ』『ヨハネ』およびパウロの手紙が大部分を占める幾つかの書簡から新約聖書を作り上げた。信条が作られるまでの経緯の中で特に重要な役割を担ったのが、リヨンの司教エイレナイオスであった。彼は多くのキリスト教関連文書を、「狂気の深淵、キリスト教に対する冒涜」と断罪した。司教連合はエイレナイオスの定式書を採用し、彼の夢見た普遍的正統教会を実現しようとした。 『トマスによる福音書』も排除された。以後、『ヨハネ』のイエス観がキリスト教の意味を支配し、規定することとなった。その規定のために、『トマス』は排除されたのである。以降、キリスト者たちは、『トマス』的な教えを異端として放逐 せよ、と説いた。
 エイレナイオスらによる4福音書の選択からコンスタンティヌス帝によるキリスト教公認に至るまで、そしてコンスタンティヌス帝によるニカイア会議での正教論議の決着、信条の制定などがその後のキリスト教の根幹を成すものとなったにもかかわらず、キリスト教徒たちはその内容について正確に知らされていなかった。
 アレクサンドリア司教アタナシウスは、この第1回ニカイア公会議で自説のニカイア信条が正統教義と認定されたものの、コンスタンティヌス帝の死後、コンスタンティヌス2世がアリウス説を信奉したため、アリウス派の教勢は一時むしろ盛んになった。アリウス派教会の政治家や皇帝の介入によりアタナシウスは前後5回、17年間にわたる追放を受けた。しかし彼は屈せず、最後まで戦い、勝利を得た。彼が正しかったからではなく、屈しなかったことにより、彼の教説は、カッパドキアのバシリウス、ナツィアンツのグレゴリウス、ニッサのグレゴリウスに受け継がれ、カトリック教会の正統教義として定着した。
 一方でローマ教会は、イエスと行動を共にしていた初期イエス信徒である女性たちの地位を、男性優位で行われるローマ教皇の「使徒継承」に異を唱えたという理由で、取るに足りない地位へと追いやった。彼らが女性たちを追い落とす材料として使われたのが「パウロの書簡」であった。これにより、イエスの母マリア以外の女性は取るに足りないものとされ、カトリックの聖職から締め出されることになった。
 こうしてイエスの真の後継者らは教会から締め出され、司教たちはペトロを初代とする作為的な教皇継承を確立することに成功した。その後、ローマ帝国の影響が及ぶ至るところでイエスの真の後継者らは徹底的に弾圧されていった。
 393年、司教たちが現在のアルジェリアのヒッポ・レギウスに召集され、新約聖書が編纂された。彼らは、ユダヤ教と縁を切ったまったく新しいローマのための宗教を確立するために召集されたのである。彼らは、主イエスの後継者である弟ヤコブの書簡1通、ヤコブが殺害された後に12使途の筆頭となったペトロの書簡2通、教会の柱と言われたヨハネの書簡3通、そして12使徒たちからは逸脱者として追放されたパウロの書簡14通を、4福音書に追加して「新約聖書」という正典を制定した。この「新約聖書」の実に半分以上がパウロによって書かれたり、パウロについて書かれたものとなった。ローマ帝国の民衆から胡散臭いと思われたユダヤ教との縁を断ち切った、この新しい正典は、ローマ帝国全土から熱狂的に受け入れられた。このパウロ版「新約聖書」は、実際のイエスとは異なるパウロ創作のキリストを生み出し、パウロのキリスト教はこの後、世界中に広まっていくことになったのである。

 
431年には、キリスト教会(ローマ・カトリック)は、十字架とマリア崇拝の思想を導入した。そして、それに逆らう正しいイエス信徒らは宗教裁判と魔女狩りで徹底的に根絶していった。宗教裁判と魔女狩りで殺された聖徒の数は、5000万人といわれる。

 ヨハネ黙示録18・4〜8にはこう書かれている。
「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。
 彼女がしたとおりに、彼女に仕返しせよ、彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。彼女が注いだ杯(さかずき)に、その倍も注いでやれ。彼女がおごり高ぶって、ぜいたくに暮らしていたのと、同じだけの苦しみと悲しみを、彼女に与えよ。彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭(あ)いはしない。』
 それゆえ、1日のうちに、さまざまの災いが、死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。また、彼女は火で焼かれる。彼女を裁く神は、力ある主だからである。」