カトリックが偶像礼拝を認めた経緯



 コンスタンティヌス以後の100年間はキリスト教会は政治的勝利を手にした。しかし、帝国内で「キリスト殺しの民」とみなされていたユダヤ教を迫害することは禁じられていた。ミラノ勅令の信教の自由が保障され、帝国ではなおギリシャ古来の偶像の神々も信仰されていた。キリスト教は、異教に寛容なパウロの思想を全面に押し立てて、異教ローマで地上的な地位を手に入れたのである。
 この地上的な地位を背景に354年、ローマの司教リベリウスのとき、イエスの誕生日が12月25日と決められた。それ以前はイエスの誕生日は5月20日とも1月6日とも推測されていた。12月25日はペルシャ起源の太陽神ミトラの冬至の祭であり、ローマでは盛大に祝われていたので、それに対抗してキリスト教会もクリスマスをこの日に祝うようになったとされる。
 361年、ローマ皇帝となったユリアヌスは、異教復興策を公に打ち出した。そして、パレスティナと聖都エルサレムをユダヤ人に返還し、ユダヤの民に神殿再建の時が来たことを宣言した。しかし、ユリアヌスがペルシア戦線で戦死すると、キリスト教会は「ユダヤ教とユダヤ人の廃絶」に乗り出した。ユダヤ人との結婚の禁止、食事を共にすることの禁止、安息日やユダヤの祭礼を共に祝うことの禁止などである。
 375年、ゲルマン民族の大集団が帝国領に入ってきて帝国が危機に立たされると、380年、ローマ皇帝テオドシウスは、キリスト教をローマの国教とすることにより、国民を強制的にキリスト教徒とした。そして翌381年のコンスタンティノープル公会議で「三位一体」の教義を確定させた。これによりキリスト教会は、義務的な表向きだけのクリスチャンで満たされることになった。
 388年12月には、修道士の扇動でキリスト教徒がユダヤの会堂に放火し、破壊、略奪する事件が相次いだ。司祭ヨハネス・クリゾストモスは、強引に教会信徒とユダヤ人との関係を絶つため、イエスや使徒たちと同族であるユダヤ人を「キリストを十字架にかけた悪魔」と定義し、キリスト教徒を扇動した。
 
 392年はキリスト教会にとって歴史的な年となった。ヒッポ公会議でキリスト教正典に『ヨハネ黙示録』が加えられただけでなく、ローマ皇帝テオドシウスは異教禁止令を発令してキリスト教以外のすべての宗教を禁止した。このとき、キリスト教がローマ帝国の国教となったのである。キリスト教会が国教となると、教会はすぐに他のすべての宗教を信じる人々の迫害に乗り出した。人々は迫害を恐れて次々にクリスチャンになっていった。イエスの教えは本来、人々を霊的・道徳的な手段によって善導支配するものであるにもかかわらず、国家が強制的に国民にキリスト教を押し付けたのである。
 以後、教会は「地の王」である国家権力との結びつきを強くし、権力志向が教会に入り込み、教会の体質そのものが変質した。ローマ教会長が「教皇」として力を握るようになったのは、この時代からである(ローマ・カトリックの「教皇表」によると最初の教皇は使徒ペテロであるとされ、その後の歴代教皇の名が記されているが、実際にはこの時までのローマ教会長は支配力を持っておらず、教皇ではなかった)。
 しかし、こうした強権体制は長くは続かず、395年にローマ帝国は東西に分裂してしまう。その2年後の397年、キリスト教の新約聖書27巻にユダヤ教の正典44巻(旧約聖書)が加えられ、キリスト教の正典『聖書』が確定した。
 410年には「永遠の都」と呼ばれたローマ市がゴート族によって略奪され、破壊された。ローマ市民の間には、従来の神々を棄ててキリスト教を国教としたことが災厄の原因であるとする風潮が広まった。そんな中、西方教父アウグスティヌスの『神の国』が書かれた。アウグスティヌスは青年時代にマニ教徒になり、享楽的な生活を送ったが、自分の行状に苦しんでいたある日、庭で近くの子供の「とりて読め」という声を聞き、手もとにあった聖書を開き、パウロの「ローマの信徒への手紙」の一節を読んで回心したと言われている。その後、アウグスティヌスはペラギウスと論争する。ペラギウスは、人間はアダムの堕落後も自由意志を持っており、罪を犯すとすればそれは人間の意志によるのであり、同時に罪を犯さない力も人間は持っており、人間が救われるか否かは人間の自由意志によるとした。これに対してアウグスティヌスは、自分の努力では自分の罪や堕落をどうしても克服できないとした。
 アウグスティヌスの論は矛盾していた。自分の罪や堕落を克服する努力を行わない者を神が憐れむとするならば、そもそもアダムが楽園を追放されることもなかったはずだし、追放されたアダムがなぜ憐れまれず楽園に戻されなかったのか、その理由を示せなかった。それでは律法が定められた理由も示せないし、イエスによる新しい契約も必要ないということになってしまう。ところが、アウグスティヌスの論は、努力や行いを棚上げして救われる安易さが大衆に受け、「広き門」としてキリスト教会の主流となる。
 また、この頃から教会内では、イエスの母マリアの扱いについての教会論争が巻き起こった。428年にコンスタンティノープル総大司教となったネストリウスは、「聖母マリアはキリストの母と言えるが、神の母とはいえない」と主張していた。これが発端となってキリストの位格をめぐる論争が起こる。
 431年、皇帝テオドシウス2世が開催したエフェソ公会議で、アレクサンドリアのキュリロスと呼ばれる人物がなした説明が正統信仰として決議され、神の母マリアと呼ぶことが公認され、教会に十字架が持ち込まれた。ネストリウスと彼に同調する人々は異端として断罪され、上エジプトに追放された。彼はそこで没した。ネストリウス説の同調者は逃れて、西方教会(ローマ・カトリック)と分裂して独自に活動し、イスラムの支配下で活動が許され、インドを経て中国(唐)に布教し、「景教」と呼ばれて栄えた。景教は現在のトルコから中国まで、シルクロードを介してユーラシア大陸に広く弘まり、13世紀中頃には首都大主教27と主教約230を数えた。しかし、14世紀末のティムールの遠征と迫害で急速に衰退し、現在はイラク北部に8万人、南インドに7000人の信者がいるとされる。当時の景教徒は安息日を守り、一切偶像を造らず、律法で禁じられている食物を口にせず、「10分の1献金」を行い、犠牲の献げ物をし、3大祭礼を守っていた。
 451年、カルケドン公会議で、総主教区はローマ・コンスタンティノポリス・アレクサンドリア・アンテオケ・エルサレムの5つとされた。このうちローマを除く4つの総主教区のことを東方教会(ビザンティン教会)とした。そして、アルメニア使徒教会・シリア正教会・エチオピア正教会・エジプトのコプト正教会などが主張する「キリスト単性論」(キリストは神と人が融合した性質を持つとする)は正式に退けられ、「三位一体」が正統教理として確定した。以来、「三位一体」はローマ・カトリック教会の中心的教義となった。
 476年、西ローマ帝国は滅亡し、ゲルマン民族のフランク王国が登場する。東ローマ帝国ビザンツ政権ではユスティニアス大帝が妃テオドラと共に東西ローマの再統一を意図し、東の教会も西のローマ教会も皇帝に従属するものとした。皇帝のもとで教会の儀式礼典が整備され、賛美歌が発達し、大会堂が建設された。コンスタンティノポリスの聖ソフィア大聖堂が完成した537年、ユスティニアス大帝は「ソロモンよ、われ汝に勝てり」という銘を書いたと言われる。しかし大帝の西方回復の意図は失敗する。当時、コンスタンティノポリス・アンティオキア・アレクサンドリア・ローマに司教座があったが、西ローマ帝国が滅亡すると、ローマ司教座は西方において唯一の統一勢力となったのである。ローマ教会の司教も東ローマ皇帝の承認なしには司教になることはできなかったが、ユスティニアス大帝後のビザンツ政権の衰退を見抜き、ローマの地の利の上に立って、ゲルマン、特にフランク王国との取り引きで、教皇権を確立したのがグレゴリウス1世である。そして彼こそが厳密な意味での最初のローマ教皇となった。
 586年に教会の上に十字架が立てられ、604年にローマ教皇となったグレゴリウス1世は、教皇(PaPa)の称号をローマの司教のみに限り、教皇のみがペテロに由来する使徒的伝承を保持するとし、教皇の権威は他の司教のみならず帝権(皇帝の権威)にも優越するとした。
 ちなみに西暦で年数を数えるようになったのは532年である。これはローマの修道僧が受胎告知をロ−マ暦の753年と計算したことに基づくが、この計算には4年の誤算があったことは、現在では広く知られている。

 638年、宗教として確立して間もないイスラム教によりエルサレムが征服された。征服者は神殿跡地にモスク(後にエルアクサ・モスクと呼ばれる)を建設し、続いてその近くに「岩のドーム寺院」を建設した。イスラム教は、キリスト教に対してもユダヤ教に対しても寛大で、キリスト教会は「聖墳墓教会」で礼拝することが認められ、ユダヤ人はエルサレムにシナゴーグ(会堂)を建てることが許された。イスラム教徒は、キリスト教徒と違って、異教徒を迫害したり虐殺したりすることがなかった。
 700年代には、偶像の是非が論争の的となった。神の像を刻んでそれを礼拝することは偶像崇拝としてユダヤ教でもキリスト教でも伝統的に禁じられてきたが、キリスト教会は教会堂の建設等と共にイエスやマリアの像を掲げ、それを礼拝するようになった。また殉教者の聖遺物礼拝も行われるようになった。それに対してユダヤ教徒やイスラム教徒から偶像崇拝だとの避難が起こり、教会内部で偶像の是非をめぐって論争が起こったのである。
 
東ローマ皇帝レオ3世は、726年に偶像崇拝禁止令を発布し、勅令によりすべての偶像(聖像)の破棄を命じた。しかし、ローマ教皇グレゴリウス3世は、これを拒否した。ダマスコのヨアンネスは「キリストは神であると共に人でもあるのだから、人となった神キリストの人間を描くことなら可能である」とし、コンスタンティノポリスの総主教ゲルマノス1世も、偶像禁止令に反対した。これにより東西教会の対立は決定的となったのである。

 751年、フランク族のピピンは、教皇ザカリアスの支持を受けて、フランク王国の王位に就いた。ピピンは王位に就いた後、自分が征服したイタリアの大部分の領土を教皇に与えた。これが「教皇領」(教皇の現世的領土)の始まりである。ピピンの後を次いでフランク国王となったチャールズ大帝(カール大帝)はヨーロッパ各地を征服して領土を拡大し、ヨーロッパに大帝国を築いた。彼は教皇との結びつきを 一層推し進め、教皇も彼を援助した。チャールズ大帝はイタリアの統治を教皇にゆだね、教皇はその返礼に「ローマ皇帝」の称号をチャールズ大帝に与えた(800年)。これによりローマ教会は、東ローマ帝国から完全に独立した。
 この間、787年に東ローマ皇帝レオ4世の皇太后イレーネによって招集された第7回公会議(第2ニカイア総会議)で、偶像の崇拝と礼拝を区別し、崇拝の対象としては偶像を認め、偶像に燈明を献じ、香を焚くことが容認された。これは東西両教会が認めた全教会会議の最後の総会議であった。これにより東西教会に偶像が復興した(その後、815年に偶像禁止運動が再燃するが893年に再び偶像が復興し、現在まで続いている)。842年には東ローマ・ビザンティン帝国でも、ミカエル3世が正式に聖像を復活させた。
 こうして、歪んだキリスト教によって、かつてダニエルによって「偶像を破壊する一つの石」と象徴された主イエスの教えが完全に破壊された。
 教会の権威を高めるために、教会の聖餐(せいさん)式によって聖別されたパンとぶどう酒がキリストの身体と血になるという「化体説」が創作されたのも、この頃である。 

 843年、フランク王国3代目のルイ1世の死と共に、王国は3つに分裂した。この分裂後、東西の2つに分裂した教会の対立も激化し、ついに東方教会と西方教会(ローマ・カトリック)は869年以来、別々の教会会議を持つようになった。そしてこの後、教皇とローマ・カトリックは堕落と腐敗を極めていく。
 教皇ニコラウス1世(856〜867年)は、教皇による世界統治権を助成するために「イシドルス教令集」と呼ばれる偽書を用いた。それは故意に歴史的な古文書を偽造・改作したもので、教皇はその書が古代からの教会の記録保管所に保存されていたと偽って発表した。この偽書は教皇制を不可侵のものとし、その後の教皇制の腐敗を決定的なものにし、教皇の座は贈賄、不正、不道徳、殺戮などの諸悪に染まった。
 教皇セルギウス3世(904〜911年)は、マロツィアという情婦を持っていた。情婦マロツィアは後にヨハネス10世(914〜928年)を殺害し、レオ6世(928〜929年)やステファヌス7世(929〜931年)を教皇の座に据え、さらに自分の不義の子ヨハネス11世(931〜936年)を教皇の座に据えた。また、情婦マロツィアの孫に当たるヨハネス12世(955〜963年)は教皇宮廷を売春宿にした。彼は自分が姦淫しているとき、怒り狂った相手の女性の夫に殺された。教皇ボニファティウス7世(984〜985年)は、盗んだ金を使い、前任者のヨハネス14世を殺して、教皇の座を獲得した。ベネティクトゥス8世(1012〜1024年)も、堂々と 賄賂を使って教皇の座を買い取った。教皇ベネディクトゥス九世(1033〜1045年)はローマで勢力を持っていた家族との取引きにより12歳で教皇に任ぜられた。彼は巡礼者から盗み、殺人、姦淫を行った。他の教皇たちも、ほとんど同じ道を歩んだ。当時のドイツ皇帝は、賄賂を最も多く献げる者たちに、すべての聖職を売っていた。こうして反キリストたちが公然と教皇の座に座るようになったのである。この間、反対者は「異端」とされて拷問、殺戮をもって罰せられた。

 1054年、対立を深めていた東方教会(ギリシャ正教)と西方教会(ローマ・カトリック)は相互破門し、完全に分裂した。東方教会はその性質上、アウグスティヌスやルターのような改革者は出ない。アウグスティヌスもルターも、「神」対「人間」という二元論が前提とされ、その2つをどう関係づけるかということで彼らの神学は成り立っている。ギリシャ正教の場合、この二元論の構図そのものを超越したところに神はあるとする。
 1073年に即位したローマ教皇グレゴリウス7世は、教皇の座に巣くっていた不道徳と聖職売買に挑み、強い改革を実施した。しかし、改革は長くは続かなかった。
 1077年、トルキスタンの他民族で構成されたセルジュク朝トルコがエルサレムを制圧した。セルジュク朝トルコは国民の宗教としてイスラム教を採用したが、イスラム教の最高権力であるムハンマドの後継者にも臆することなく兵を向けてエルサレムを制圧したので、イスラム教の権力者たちのみならず、キリスト教徒やユダヤ人たちも慌てふためき、エルサレムを支配下に置こうとして結束が拡がった。
 1088年に即位した教皇ウルバヌス2世は、教会に戦争と殺戮を持ち込み、1095年にヨーロッパの精鋭騎士たちを終結させ、自ら十字軍遠征の指揮官となった。司教アデマールの指揮のもと、1099年についにセルジュク朝トルコ軍を打ち倒してエルサレムを制圧した。十字軍遠征は1291年まで計8回行われたが、成果を上げたのは、この第1回遠征だけであった。その第1回遠征でさえ、勝利に酔った十字軍の軍勢はイスラム教徒に無差別殺戮を繰り広げて、キリスト教の大儀を台無しにした。
 アレクサンダー3世(1159〜1181年)は、ドイツ軍との間に何度も戦争を繰り返し、殺戮を重ねた。この頃、フランスのリヨンの豪商ワルドーは聖書をフランス語に翻訳させ、それを読んで、当時のローマ教会のキリスト教とイエスの教えがいかに異なっているかを知り、全財産をなげうって1177年、「リヨンの貧者」という団体をつくった。聖書に基づいてイエスの教えに帰ることを目的とした団体であったが、その結果、カトリック教会の教理や制度の多くを否定することになる。ローマ教会側は、1179年にアレクサンダー3世が、1215年にはインノケンティウス3世がこれを禁止し、1229年には信徒が聖書を読むことを禁止した。そして彼らを迫害したのである。ローマ教会は、彼らのみならず教会の教理・制度に反対する者たちをあぶり出して、徹底的に殺戮した。ローマ教皇の委任を受けて殺戮を行ったのは、主としてドミニコ教団の僧兵「キリストの兵士たち」であった。
 この間、1187年にエルサレムはイスラムの英雄サラディン(エジプトの宰相)の手に落ちた。第6回十字軍遠征で一時的にエルサレムを奪回するも、それもつかの間、1244年にはサラディン後継者に奪い返され、1291年にはパレスチナとシリアは完全にイスラムの支配下となり、十字軍遠征は終焉した。
 十字軍遠征によって数多く誕生した騎士団は、数多くの修道院に姿を代え、数々の聖堂を建築した。建築を担ったのは主に「ソロモンの子どもたち」と称する石工スペシャリスト集団であった。彼らは、ソロモン神殿を建設したティルスのヒラム(フラム)の技術と知識を継承した者たちとされ、ヨーロッパ各地でほぼ同時期に聖堂建設が始められた。いわゆるゴシック建築と呼ばれる建築である。ノートルダム大聖堂、シャルトル大聖堂、ランス大聖堂をはじめ、数え上げればきりがない。そのすべての聖堂に、彼らの手による巧みな偶像が散りばめられている。騎士たちはまた、エルサレムから途方もない宝物を持ち帰っていた。その中には、神殿の祭具や古い写本も含まれていたといわれる。ローマ教会は、その宝物に「契約の聖櫃」が含まれていて、それをフランスのラングドック地方に拠点を置く「カタリ派」が隠し持っていると結論づけた。そして、それを彼らから奪うため、彼らを迫害し始めるのである。
 インノケンティウス3世(1198〜1216年)が教皇に即位すると、彼は権力を欲しいままにし、「教皇無謬(むびゅう)説」(教皇には間違いが一切ないという説)を唱え、「天上、地上、また地獄の一切のものは教皇の臣下である」と豪語し、ラテン語以外で聖書を読むことを禁止し、信徒には聖書を読むことを禁止して庶民からイエスの教えを遠ざけた。彼はまた宗教裁判所を設置し、異端者の根絶を命じた。禁欲と清浄を旨としたカタリ派の大殺害を命じたのも彼である。カタリ派はユダヤ文化とイスラム文化に寛容で、男女の平等を認め、聖職者の資格を持たない者でも説教でき、ローマ教会のように任命された司祭や豪華な教会堂を必要としなかった。聖ベルナールはカタリ派について、こう言っている。「カタリ派の説教ほど、キリストの教えに忠実なものはない。神を信じる彼らの心は純粋である。」と。ローマ教会は、しかし異端者の密告の風習は全土に広がり、人々は恐怖政治のもとに置かれた。そして何万人もの血が流された。殺戮は35年間、続いた。聖餐(せいさん)式で聖別されたパンとぶどう酒がキリストの身体と血になるという「化体説」をローマ・カトリック教会公認の教理にしたのも、彼である。聖餐式は、その執行者や受領者の倫理的状態には(つまり執行者や受領者がいかなる罪人であったとしても)まったく関係なく、それがカトリック教会の聖職者によって行われたという客観的事実によってのみ効果を持つとされる。聖餐式では、受領者にはパンだけ与えて、ぶどう酒の杯は手に持たせない。これは聖別されたぶどう酒=キリストの血を万一こぼすと取り返しがつかないという理由による。
 グレゴリウス9世は1229年、異端審問を教皇公認の制度にした。容疑者の弁明、上告は認められず、証拠調べも行われず、異端であることを否認すれば偽証罪に問われ、拷問された。教会が「真理の保持者」である以上、教会の教理や制度に反対する者が罪人であり、教会に容疑者とされた者には罪を逃れる余地はなかった。そして異端審問官として、教皇の委任を受けて活動したのが、またも「主の番犬」ドミニコ教団の修道士たちであった。彼らによって、いわゆる「魔女狩り」も、徹底して行われた。1244年には、モンセギュールの神学校で200人以上が生きたまま火あぶりにされた。
 教皇ボニファティウス8世(1294〜1303年)は「救われるためには教皇に従わなければならない」と説く一方で、自身の生活は堕落を極めていた。この時代にローマを訪れたダンテ(『神曲』の作者)は、バチカンを「悪徳の下水溝」と呼んだ。『神曲』の中でダンテは、ボニファティウス8世をニコラウス3世やクレメンス5世と共に、地獄の最下層に置いた。
 
 しかし神の裁きは下った。1309年、教皇庁がイタリアから南フランスのアビニヨンに移され、教皇はフランス王の支配下に置かれた。いわゆる「教皇のアビニヨン捕囚」(かつてユダヤ人がバビロンに捕囚となったことになぞらえて「教皇のバビロン捕囚」とも呼ばれる)である。この後、教会分裂が起き、1378年から1417年にかけて2組の教皇が擁立され、互いに非難し合った。カトリックの使徒的伝承は空しいだけとなり、教皇庁は分裂、聖職売買や姦淫が横行して、教皇の威信は失墜し、教皇制は没落した。さらにペスト(黒死病)がヨーロッパ全土を襲った。『世界の歴史』(デュラント)によるとこのペストによりヨーロッパ全土で2500万人の死者が出たという。ペストの流行はユダヤ人が井戸に毒を入れたためだとの風評も流れ、ヨーロッパ全土でユダヤ人の大虐殺が起こった。
 このような教皇庁の有り様を非難したのがイギリスのジョン・ウィクリフで、彼は聖書こそが「神の律法」であり、ローマ教皇は救いの仲保者ではないとし、聖書は誰も自由に読むべきものであるとしてウルガタ・ラテン語訳聖書を英訳した。また彼は「化体説」も聖遺物崇拝も否認した。しかし彼の追随者たちは血なまぐさい迫害を受けた。彼の思想をボヘミヤで実現しようとしたのがフスである。フスはプラハ大学の学長だった。フスは、信仰の基礎は聖書であり、教会の頭はキリストであって教皇ではないと主張した。しかしコンスタンツ総会議でフスの焚殺(ふんさつ)が決定され、1415年に処刑された。
 その後、ペストの大疫病に続いて、トルコ軍の剣がヨーロッパを襲った。トルコ軍は、次々にヨーロッパの街々を征服し、1453年にはコンスタンティノープルが陥落して東ローマ帝国が滅亡。1480年にはイタリア半島に上陸した。そして、疫病と剣に襲われた大地に飢饉が襲った。コンスタンティノポリスの聖ソフィア大聖堂はイスラム教の寺院となり(現在では博物館となっている)、以後ギリシャ正教会はモスクワがその中心となった。いわゆるロシア正教会である。
 こうしてローマ・カトリックの教理による中世の秩序は崩壊した。そして、ローマ教会の権威からの解放と人間性の回復を叫ぶ「ルネサンス」の波がヨーロッパを覆う。ルネサンスは日本では「文芸復興」と訳されるが、正しくは教会中心から人間中心への転換であり、かつてのギリシャに代表される異教的な人間中心主義の復興である。その中で起こったのが、いわゆる人文主義的宗教改革である。
 カトリックも積極的にこれを教会に取り入れることにより、ローマ教会の維持をはかった。教皇アレクサンデル6世やユリウス2世らは「ルネサンス教皇」とも呼ばれた。現在のサン・ピエトロ大聖堂は、コンスタンティヌス大帝が建設したバシリカ式(長堂式とも言われる平面式の建築で、キリスト教会が異教礼拝堂を嫌って用いた。旧約聖書の律法に記されている聖所もこの建築)の大聖堂を壊して、ユリウス2世が建設を始めたものである。ルネサンス式建築の代表である回天井を持つ現在の形にしたのはミケランジェロである。そして、この建築の資金を得るために免罪符が売られ、それがルターの宗教改革の直接のきっかけになったのである。

 1517年、ルターがウィッテンベルグの城教会の門扉に免罪符反対の「95箇条の提題」を公示した。彼は腐敗したカトリックに反対し、「聖書に帰れ」と叫んだ。これ以前にも腐敗したカトリックを批判する改革者はいたが、このときから宗教改革の波が全ヨーロッパ的な運動となって広がっていったとされる。
 ルターは鉱山労働者の子として生まれ、大学で法律の学位を取ったが、あるとき雷鳴を伴った嵐に会い、死の恐怖から「助けてくれれば僧になる」と祈ったことを契機にアウグスティヌス会修道院に入り、修道僧になったとされる。
 ルターの信仰をひとことで言えば、「罪人にして同時に義人」というものである。ルターは自身の修道生活の経験から、人間の努力によっては神の義には至れないとの結論に至り、パウロの言葉(「ローマの信徒への手紙」1・17)に同感し、「義人は行いによるのではなく信仰によって生きるのである」と宣した。これが「塔での回心」といわれるルターの回心である。彼は、救いが人間の努力によって得られるものではないならば、人間が現実的に罪であるか否かに関係なく、神のめぐみによってのみ人間は救われる他はないとした。この流れをくんでいるのが、いわゆるプロテスタント(新教)であり、プロテンスタントの福音主義的信仰とはこのような立場をいう。これはパウロやアウグスティヌスの立場に通じるもので、このような立場からは免罪符を買うことによって救いが得られるというような主張には到底、同意することはできなかったのである。
 ルターの公示はたちまちヨーロッパ中に知れ渡り、ルターは異端者として告発され、教皇レオ10世は異端審問を開始させた。この結果、ルターは破門になるが、彼の支持者フリードリヒ選帝侯によってヴァルトブルグ城にかくまわれ、ここで新約聖書をドイツ語に翻訳する。ルターはまた旧約聖書から5つの文書を取り除き、これがプロテスタント聖書として現在も使われている。ルターの運動は南ドイツ、オーストリア、ハンガリー、オランダに広がり、スイスのドイツ語圏でツウィングリの宗教改革が起こり、これが「宗教改革」と呼ばれるものに拡がっていく。
 しかし、ルターは教皇派とは異なる見解をもち、キリスト教会の制度上の問題という「コップの中の嵐」を問題にしたにすぎなかった。ルターは、「聖書のみ」と言いながら、聖書の中で自説に都合の悪いもの(ヘブル書・ヤコブ書・黙示録など)は排斥し、カトリックと同様の間違いも犯した。また、ニカイア公会議から積み重ねられてきたキリスト教会の間違いを引き継いだ上に、さらに新しい間違いを付け加えた。ルターの著作でもっとも広く読まれ、宗教改革のバイブルとなった1520年の『キリスト者の自由』を一読すれば、彼の間違いの多さと大きさは歴然である。
 キリスト教会の間違いの多くの根源は、「行い」と「信仰」を分離した上で、「行い」には価値がなく「信仰」のみに価値があるような理屈を展開したパウロにあるが、ルターはパウロの理屈をさらに発展させ、「キリスト者は信仰だけで十分であり、義とされるのにいかなる行いをも要しない。」とした。また彼は、「キリスト者はその信仰によって再び楽園(エデンの園)に置かれ、新しく創造されたので、義となるのに何の行いをも必要としない。」とした。さらにルターは、キリスト者は信仰さえ持てば、救われることを求める必要さえなく、信仰のみで救われると説いた。
 しかし、これはイエスの教えとは明らかに一致しない。イエスによれば人間は、悔い改めて、自分の足で立って、御国(天国)に入らなければならない。キリストはそのために共にいて下さり、助けとなって下さるけれども、それは一緒に歩いて下さるのであって、自分で歩かなくていいということではない。
 これは、かつてモーセが出エジプトした際も同様であって、出エジプトした民はカナンまでの道のりを、モーセが手をとって引っ張って行ったわけではない。
 イエスは羊飼いにたとえられるように、羊たちの導き手なのである。羊飼いに導かれて自分で歩くということは、イエスが示して下さっている正しい認識に従って、正しい意思で、生活することにほかならない。生活は「行い」なしではできないのである。
 宗教改革は、ローマ教会の手からキリスト教を解放するという役割だけは果たした
。しかし、善行と無関係に信仰の認識だけを持てば救われるというインスタントな救済論には、信仰の実体がない。ただ、死後に地獄に落ちる恐怖にとらわれている人々や、世の終わりの恐怖にとらわれている人々には、安直な「お手軽キリスト教」は大いに訴えるところがあった。しかし、それは人々の恐怖心に訴えるものであって、人々の正しい思考に訴えるものではない。つまり、それは御国の正しい生活に直結しない、虚信(むなしい信仰)でしかない。御国とは、どこかにあるものではなく、現在の生活をイエスと共に生活し、イエスが示してくださる正しい生活をする者たちが、復活後も同様に生活することにほかならない。その生活は、死や恐怖とは無関係な生活である。つまり、それが「死」が入り込む前(アダムとイブの堕落前)の楽園の生活なのである。「死」と無関係の楽園生活を生きることが、御国にあることなのである。信仰とは、キリスト教会に入信して、教会に通い、再臨のイエスを待っていれば救われるという夢物語ではない。

 ルターの著作をスイスで頒布したのはツウィングリであるが、ツウィングリはルターの追随者ではない。ツウィングリは改革派プロテスタンティズムの祖であり、それをスイスのフランス語圏に広めたのがカルヴァンである。ツウィングリは「罪人にして同時に義人」的な論理矛盾した福音主義には同意せず、聖餐式のパンとぶどう酒についても比喩的意味しか認めなかった。そしてルターの立場を「肉を食い、血を飲む者」と非難した。またツウィングリは神の絶対的権威を強調した。カルヴァンもこれに同意し、神の絶対的権威に従うことを厳しく要求した。このことは勤勉、誠実、規律といった徳目を人々に要求した。ただ、ツウィングリもカルヴァンも神の権威のみを強調するあまり、神の愛が語られることはきわめて少ないため、貴族層や農民層には浸透していかなかった。