教会へのサタン侵入


 金銭で聖職を買えるようになったカトリックの教皇庁に、やがてある人々が入り込んだ。1485年5月24日、トレドに異端審問所が訪れた。トレドは、ヨーロッパで当時「フラムの子ら」(後に詳しく解説)と呼ばれた人々の中心拠点だった町のひとつだった。異端審問所によって、この町に住むユダヤ人への暴行が許可された。ただし暴行が行われる前には「憐れみの時」が与えられ、町の人口の2割近くに当たる3000人のユダヤ人やユダヤ人を自称していた人々がキリスト教に改宗したようにみせかけた。その時、「フラムの子ら」と呼ばれる人々も名目だけカトリックに改宗し、カトリックに入り込んだ。彼らはこの時、自分の名前をヨーロッパ風に変えたので、カトリックでは誰が「フラムの子ら」で、誰がそうでないかが判らなくなってしまった。
 当時、クリスチャンは金銭にどんな関心も持ってはならないとされていたため、母国を失ってヨーロッパに移り住んでいたディアスポラのユダヤ人(実は偽ユダヤ人)だけが金貸しとなっていた。金貸しの中に「フラムの子ら」もいた。王や諸侯が戦争や浪費のために金が必要となった時、彼らは金貸しのところに行った。こうして、ヨーロッバ諸国の王や貴族は「フラムの子ら」に支配されるようになり、ヨーロッパは富の力によって管理されていった。カトリックも、「フラムの子ら」を恐れながら、内部に彼らを多数抱えることになっていったのである。
 1513年にローマ教皇となったレオ10世(フィレンツェの名家メディチ家のジョバンニ。メディチ家は他にもレオ2世、クレメント7世らの教皇を輩出した)は、ユダヤ教の秘儀カバラに興味を持ち、カバラの秘儀を教わるため「フラムの子ら」に引き込まれた。そして1534年、ローマ教会内に、神秘主義者の聖イグナティウス・デ・ロヨラらによって男子修道会「イエズス会」が創設された。彼らはプロテスタント勢力に対抗しうる革新運動と称して男子修道会「イエズス会」を認めさせたのである。イエズス会は清貧・貞潔・聖地巡礼の誓いを立て、教皇の命令には「死体のように運ばれ、盲人の杖のように用いられる」とし、上司に対する絶対服従が求められた。この徹底した姿勢が、宗教改革によって弱体化したカトリック教会に新しい息吹を与え、宗教改革に対抗する勢力の中心的存在となり、ついにはカトリック教会そのものを左右する勢力となった。
 彼らは、ヨーロッパで失ったカトリックの権勢を、ヨーロッパ以外の地で回復しようとして海外伝道に力を入れ、新大陸の植民地化に活躍した(日本にキリスト教を伝えたとされるフランシスコ・ザビエルもイエズス会士である)。これがいわゆる「大航海時代」である。彼らは航海による輸出入で富と力を蓄えた。旧約聖書に登場する「ティルス」(預言者エゼキエルはティルスをサタンそのものと明かしている)と同じく。
 イエズス会士で偽ユダヤ人のアダム・ヴァイスハウプトは、ドイツのババリア地方インゴルシュタットにイエズス会が作った大学の中で「ババリア・イルミナティ」を作った。イエズス会は、「フラムの子ら」がカトリック教会の乗っ取りと世界支配のために作った集団であった。もちろん、一般のイエズス会士や信徒は何も知らずまじめに神を礼拝し、生涯を神に捧げていた。
 この頃、イングランドでは、王であるヘンリー8世が王妃キャサリンを離婚してアン・ポーリンと結婚しようとしたが、ローマ・カトリック教会は「破門する」と言って王をおびやかした。これに対して王は、教皇のイングランドでの称号であった首長(Head)を自ら称し、イングランド王が英国教会の地上唯一の最高首長であるという「首長令」をイギリス国会で通過させ、英国教会をローマ教会から独立させた。ヘンリー8世は生涯に6人の女と結婚した。
 そのヘンリー8世の子、エドワード6世は9歳で即位し、16歳で没したが、その在位中に「42箇条」の信条を制定させた。この信条のもと、英国では新教徒が活躍することになる。しかし、次に即位したメアリー1世(ヘンリーとキャサリンの娘)は、母親が離婚されたことを根に持ってカトリック教徒となり、1554年にローマ・カトリック教会と英国教会を再一致させた。そして新教徒を迫害し、新教徒の指導者約300人を処刑し、多数の新教徒が亡命した。
 次に即位したエリザベス1世(ヘンリーとアン・ポーリンの娘)は「首長令」を再制定させてローマ・カトリック教会との関係を断ち、「39箇条」の信条を制定させた。ただし、エリザベス1世は「女王は英国教会の統治者である」と称し、「首長」とは称しなかった。しかし、これが亡命していた新教徒たちの不評を買った。彼らが清教徒(ピューリタン)である。ローマ教皇ピウス5世はエリザベスを破門し、「イギリス国民を女王に忠誠を尽くす義務から解放する」と宣言して、スペインのフェリペ2世にイギリス国王の資格を宣言させた。これに呼応してイギリスのカトリック教徒は、スコットランドから亡命していた女王メアリー・スチュアート(フェリペ2世の姪)を擁立することを企てた。これに対しエリザベスは、メアリー・スチュアートを他のカトリック教徒と共に処刑した。ここにイギリスとスペインの間に戦争が勃発。結果は、スペインの無敵艦隊がイギリス海峡で惨敗した。こうしてイギリスにエリザベス時代が現出することになる。カンタベリーの監督ホイットギフトは国内のピューリタンを弾圧したが、かえってピューリタンの数は増えて、エリザベス朝の末期には英国のプロテスタントの3/4がピューリタンであったと言われる。
 エリザベスの次のジェームズ1世の時、聖書の欽定訳が完成した。これが近代英語の規範になった。ジェームズ1世は「王権神授説」に基づいてピューリタンを弾圧した。これがメイフラワー号によるピルグリム・ファーザーズの新大陸(アメリカ)移住になった。
 ジェームズ1世の子のチャールズ1世も「王権神授説」に基づいてピューリタンを弾圧し、それに反対するピューリタン派が集まって制定したのが「ウエストミンスター信仰告白」である。その後、オリヴァー・クロムウェルによって共和制が樹立され、チャールズ1世は斬首された。これが清教徒革命である。しかし、ピューリタンはあまりに厳格な社会生活を国民に規制したため、国民の反感を買い、チャールズ2世による王制復古となる。以後、英国教会はピューリタンと一線を画することになる。
 
 1618年から1648年にかけて、プロテスタントとカトリックの間で最大の宗教戦争「30年戦争」が戦われた。ドイツ国内で新教プロテスタント連合と旧教カトリック連合が対立し、それらを支援する外国勢力も加わり、主にドイツ領が戦場となった。30年戦争の間に、ドイツの人口は3000万から1200万に減じたと言われる。この戦争を通じて、プロテスタントもカトリックと同様、教会と国家が癒着し、教理の枝葉末節にとらわれる傾向が強くなっていき、カトリックとの現実的な相違が分かりにくくなっていった。そうした中、プリテスタント内に、正統主義に反対する「敬虔主義」(信徒各自が聖書に親しみ、家庭での礼拝を守り、個人として聖なる生活に新生する等、敬虔な生活することを主張。トランプや観劇、ダンス、おしゃべりも禁止された)が生まれた。彼らは、パウロやルターと異なり、信仰における人為的努力=行いを認めた。
 この時期、哲学の探求手法(啓蒙主義)によって、思想的に神の有無が盛んに論じられるが、要するに創造物にすぎない人間が、創造者である神を理解する試みはかなうはずがなかった。イギリスでは、経験論のベーコンやホッブズ、ロックがその代表である。イギリスで思想によって神を論じる風潮を克服する道をとったのがメソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーの福音主義である。ウェスレーは「万人救済説」(キリストは救いに予定された人々のためだけでなく万人の救済のために十字架にかけられたとする。ただしその救いを受け入れるか受け入れないかは人間の選択によるとする)と、「キリスト者の完全」(キリスト教徒は実際生活において聖化された完全な状態にならなければならないとする)
 
 1656年にジャン・ロレンツォ・ベルニー二によって バチカンのサンピエトロ広場が設計された。広場の中央には、紀元1世紀頃にエジプトから運ばれたとされるオベリスクが据えられ、そこから放射状に広がる12宮街道が地面に記されている(ローマ・カトリック教会の中心であるバチカンは、紀元326年、ミトラ教の聖地跡にコンスタンチヌス帝によって建てられた)。これは聖書で禁じられている占星術の「春分点歳差(バーナル・エクイノクス・プレセシオ)」を示したもので、バチカンの信仰が神でもキリストでもなく「春分点歳差」そのものにあることを示している。この「春分点歳差」を信仰してきたのがフリーメイソンであり、オベリスクは神に反逆して「バベルの塔のある町」を建設したニムロドの男根を意味している。

 イギリスの啓蒙主義はやがてフランスに輸入され、イギリスよりも反キリスト教的な色を帯びる。合理論のデカルトやキリスト教批判のヴォルテールに代表されるように、当時のキリスト教と人間の立場の逆転が試みられたのである。こうした流れからフランス革命が生まれたというのは情緒的に過ぎる。フランス革命はジャコバン党(ジャコブとはイスラエル人の祖先ヤコブのこと)を含むイルミナティのいくつかの結社によって計画され実行された。そして無数のカトリックの聖職者たちが殺された。フランス革命の後、ナポレオンとその4人の兄弟たち(いずれもフリーメーソン)が引き続きカトリック教会の力をそぎ続けた。「フラムの子ら」の最重要テーマは「ソロモン神殿の再建」(実はティルスのフラムが建設した偽りの神殿の再建)である。エルサレムの神殿はイエスの預言どおり紀元70年に破壊されたが、「フラムの子ら」の一大目標である「神殿再建」の思想はその後、ゆっくりと長い時間をかけて巧みにキリスト教会に侵入していった。
 1738年、ローマ教皇クレメント12世はフリーメーソンを非難し、カトリック信者はそれに加わってはならないと言った。しかし、イギリスの非国教会派でカトリックのノーフォーク公爵はこれを無視し、英国フリーメーソンのグランドマスターとして行動し、モンタギュー子爵(イルミナティであった)も英国のカトリック教会の頭でありながらこれを無視して英国メーソン・ロッジのグランドマスターとして行動した。
 「フラムの子ら」は、ルネッサンス(ヘレニズム文芸の復興。ヘレニズムとは女神崇拝のことで人間の快楽を開放する文化)と宗教改革を背後から応援してカトリック教会の弱体化を図った。カトリックから異端として弾圧された者たちの中には、「シオン修道会」などのように表向きは修道会を装った秘密結社となって、聖書の世界観を偶像で飾ろうとする権力者たちの配下に仕えて教会に侵入し、秘密結社の思想を巧妙に教会の建物の中に描き入れていった。教会を偶像化、多神教化するためである。この頃、「フラムの子ら」が彼らの思想を正当化するために編纂したのが『百科事典』で、これは世界中に広まり、世界の教育のスタンダードとされて人類の洗脳に使われたため、人類に与えた負の影響は大きい。
 こうして、ヨーロッバの各国政府は「フラムの子ら」に支配されていった。ポルトガルの王室顧問、スペインの王室顧問、革命後のフランス指導層らも「フラムの子ら」のメンバーで、彼らは互いに 「ピラミッドの兄弟、キリスト教の組織打倒の擁護者」と呼び合っていた。オーストリア国王ヨーゼフ2世もフリーメーソンに理解を示した1人である。このヨーゼフ2世をモーツァルトは多くの作品で讃えている。モーツァルトはカトリック教徒であり、多くの教会音楽を生んだが、フリーメーソンに加入している。ヨーゼフ2世がフリーメーソンに理解を示したことが、モーツァルトがヨーゼフ2世を讃えた理由である。
 フランス革命以来、イエズス会は各地で政治に参与し、カトリックの絶対主義に抵抗した。しかし、そのためにスペイン、ポルトガル、フランスの諸国はイエズス会を次々に追放し、フランスのブルボン家と、オーストリアやスペインのハプスブルク家の諸侯は、ローマ教皇クレメンス14世にイエズス会を抹殺するように迫った。クレメンス14世ははじめ、諸国の圧力に屈せずイエズス会弾圧に慎重な姿勢を見せていたが、欧州諸国と教会との関係を悪化させてはならないという観点から、これらの要請に抵抗できなくなり、教皇への絶対的服従を誓願の一つとしているイエズス会に、1773年7月21日、「教会の平和のために、親しい者でさえ犠牲にしなくてはならない」との書簡をもって解散を命じた。イエズス会はその命令に即座に従ったが、ロシア政府は教皇の命令を発表しなかったため、150人ほどの会員がロシア政府の庇護のもと、合法的に存続することができた。また、献身的なメーソンで同性愛者だったプロシヤのフレデリック大王がイエズス会を、教皇とブルボン家に対抗する勢力として用いるために擁護した。それから間もなく、イエズス会の勢力下の地域でイエズス会とは無関係のように装いながらイルミナティが台頭してきたのである。
 イルミナティが実行したフランス革命から数年の内に、ナポレオンがフランスにおけるローマ教皇の支配を破壊した。ナポレオンは『自由・平等・博愛』というフリーメーンのスローガンに従ってフランス革命を進め、教皇の力を完全に打ち破ってしまった。彼は教皇ピオ6世を監禁したが、他のメーソンの反対で殺すことは止めた。そして、ピオ6世の死に伴い、ピオ7世を教皇にすることを許した(教皇権は1798年にナポレオンの命令のもとバルシェー将軍によってピオ6世が捕らえられて終止符を打った。しかし1929年にベニト・ムッソリーニと法王がラテラノ条約で調印し、協定を結んでバチカン市国の教皇庁を再び設立した)。しかし、ピオ7世も監禁された。ナポレオンはピオ7世に、さらに教皇の力をそぐ書面にサインさせた。
 ナポレオンは、敵国の連合軍によって彼のヨーロッパにおける地位が粉々に砕かれるのを見たとき、教皇を釈放した。釈放されたピオ7世が最初にした仕事は、イエズス会の復興であった。教皇捕囚の期問、カトリック教会を支配したのは「フラムの子ら」であった。
 この間、カトリック内で彼らはバチカンの公文書保管所をパリに移転した。この公文書保管所で知り得たカトリックの多くの重大な秘密を、彼らはすぐには公表しなかった。これらの秘密を教会への恐喝のために保管し、最大の効果を発揮する時に小出しに発表するためである。
 ナポレオンによる教皇捕囚がカトリックの歴史の転換点となったとする説は、この意味では正しい。確かにその時からイエズス会と他の「フラムの子ら」のカトリック教会への浸透、管理、影響が強固なものとなった。
 その後も表面上の破門、禁止にもかかわらず「フラムの子ら」のメンバーに加入した後にカトリックの主要な地位に上った者たちの数は多い。 ピオ4世は「フラムの子ら」のメンバーとして立証できる最初の法王である。エジプトのグランドオリエントの公式文書に1839年8月15日に彼がマスターメーソンの儀式を受けたとの記録がある。メディチ家の教皇である彼の命令でミケランジェロはポルタ・ピア(ローマの市門。もちろん偶像で飾り立てられている。普通の市門は外に正面を向けているが、この市門は市内側に正面を向けている)等を造った。
 イタリアはフランスやオーストリア、スペインなどの王国によって分断されていたが、フランスで「フラムの子ら」のフランス銀行が札束を独占した1848年、ミラノで民族主義によるイタリア統一を果たそうと民衆が決起した。中心的役割を果たしたのが、メーソンのガリパルディとその仲間たちである。このイタリア統一に反対したのが、ローマ法王とナポリ王であった。当時のナポリ王室の財政を支えていたのは、ロスチャイルド商会であった。イタリア革命の波は全土に広がり、1866年までにバチカンを除く全土が統一され、フリーメーソンの政府が就任した。そして、イタリアのグランドマスターであるヴィクター・エマニュエル(ヴィットリオ・エマヌエレ2世)がイタリア国王の座に就いた。教皇ピオ9世は「バチカンは牢獄である」と定義して引きこもり、これが現在のバチカン市国の原型となった。このとき、広大な領地を失って収入を失い、窮地に立った教皇に融資を申し出た者の記録がバチカンに残されている。その者の名は「ロスチャイルド」。一方、イタリアの権力の座に着いたヴィクター・エマニュエルにぴったりと寄り添っていたのが、パリ・ロスチャイルド家であった。ロスチャイルド家は表の世界に顔を出す「フラムの子ら」のうちの1つである。
 教皇ピオ9世の後継者レオ13世は、バチカン内部に「宗教活動協会」という事務所を設立した。これが一般に「バチカン銀行」と呼ばれるものである。今日、「バチカン銀行」の投資顧問として、ロンドン・ロスチャイルド銀行とハンブローズ銀行とクレディ・スイスがヨーロッパと世界戦略を担当している。この金庫の鍵を握っている者が、バチカンを動かし、枢機卿を支配し、教皇を動かしているのである。
 1873年、教皇ピオ4世は書簡を発表し、フリーメーソンが悪魔からのものであると公然と告発した。それに対してヴィクター・エマニュエルはフリーメーソンの各支部に書簡を送り、ピオ4世の追放を伝えた。
 レオ13世の法王在位時代には、「カトリック近代主義」が教会の伝統に反対して行動し始めた。パリの聖サルビス神学校の監督ジーン・バプティスト・ホーガンはこの運動の重要人物である。この運動の多くの運動家はフリーメーソンか、またはその前歴があるとの疑惑を持たれていたので、1884年にレオ13世は強硬な反フリーメーソンの回状を送った。チャールズ・E・コフリン神父もラジオを通してこの間題を語り続けたが、力ある人々が放送を止めさせた。それでも神父は、異教、サタン礼拝、拝金主義、共産主義など、フリーメーソンによってもたらされた教義を攻撃し、説教し続けた。すると、ニュースメディアは神父に集中攻撃を始めた。デトロイト・フリー・プレスは9日間にわたって1面で彼の評判をおとしめるために攻撃した。
 1903年にピオ10世が即位すると、ついにカトリックの頂点にサタンの座が据えられることになる。1902年の聖職者会議で、メーソンのラクロクス神父が法王ピオ11世として選ばれたのである。ラクロクス神父をローマに召喚したのはピオ10世であった。
こうしてメーソンは、ついに教皇の座を奪ったのである。
 その後のカトリックの枢機卿らが「黒いパラシュート」と呼ばれ、国連の裏を暗躍し、外交の裏世界で何をしてきたかはよく知られている。中でも、バチカン銀行の草創期からロスチャイルド家から依頼を受けて教皇庁を動かしてきた最大の実力者ラファエル・メリーテリヴァル枢機卿は1929年、ラテラノ条約を条約を結んでムッソリーニにヴァチカン市国の独立を認めさせた。これによりメーソンが支配するバチカンとバチカン銀行は合法的に保護されることになった。