ローマ教皇ヨハネ23世は貧しい生まれであった。彼の名はジョセッペ・アンゲロ・ロンカリーで、77歳で法王ヨハネ23世となった。この「ヨハネ23世」という名は、1415年に反法王として破門された人物の名であったため、その後どの法王もあえて使用しなかったが、パリ国立図書館にはヨハネ23世(ジャン・コクトー)と呼ばれている人物が『シオンの長老』(ダビデの血統を自認するメーソン秘密結社)のグランドマスターだったという書類がある。
『虹の隠れた危険』(コンスタンス・カンベイ著)に、「ローマ・カトリックの中にニューエイジの計画の根を植え付けることを許した法王を1人あげるとすれば、それはヨハネ23世であろう。彼はニューエイジとカトリック近代主義者から特別の尊敬を持って迎えられている」と書かれている。
第2バチカン公会議は、カトリックが異教、偶像崇拝を公認した最大のターニングポイントとなった。第2バチカン公会議で議決された内容は、正確にフリーメーンンの教義に従っている。 ヨハネ23世はこの会議の発起人に名を連ね、カトリック教会をフリーメーソンにするだけではなく、反共産主義の姿勢をも変えさせた。第2バチカン公会議に先立って彼は書簡で、この会議の目的は「人類の一致による千年王国の実現である」と記している。ヨハネ23世は、彼の見解に好意的な12人の枢機卿を追加任命した。
戦後アメリカのCIAは、ヨーロッパのメーソン・ロッジの再建に資金を提供し、カトリックヘも巨額の援助を与えた。その時のCIAエージェントであるカトリック枢機卿マルロチェッチが教皇パウロ6世となった。このパウロ6世(ヴィクター・マルロチェッチ)のもとでカトリック教会は、フリーメーソンの理想であるニューエイジ化に向けてさらに加速した。社会主義的「革命の神学」が教会の中に入り込み、秘密結社「コロンブスの騎士」とフリーメーソンが共同して動き出し、カトリック教会がフリーメーソンの前衛に据えられ、フリーメーソンの「P2」が発達した。そして、イエズス会、ドミニコ会、バウリスト神父会などが「革命の神学」を広め始めた。
「革命の神学」は、革命と社会主義をうたい、社会主義「新秩序」のために戦うとする。実際に「革命の神学」は 「新しい秩序(ニューワールドオーダー)」と呼ばれている。今や、カトリック教会は「革命の神学」によるフリーメーソンの世界支配を推し進めている。ヴィレット枢機卿、カサロリ大僧正、ベネリ大僧正らは皆フリーメーソン会員である。
これら「フラムの子ら」の活動と浸透は、誰にも知られなかったわけではない。元イエズス会士だったというアルベルト・リベラ博士は1960年代初期に、イエズス会の総会長がフリーメーソンであり、ロンドンのイルミナティと堅いつながりがあると知って非常なショックを受けたという。なぜならイエズス会では、フリーメーソンは敵だということに留意せよ、と教えられていたからである。また、フランスのダニエロー枢機卿はカトリック教会内部で重要な地位に付いたフリーメーソンのリストを持っていると発表した。その4日後の1974年5月20日に彼は殺され、死体はストリッパーのアパートに置かれていた。6月25日付のニューヨーク・タイムスは、枢機卿がストリッパーのアパートで「心臓発作」で死んだとのスキャンダルを流した。
P2(イタリアのグランドマスターが創設を働きかけた非公式式のメーソン組織「ラグラバメント・ゲリー・プロパガンダ2」)のメンバーが暴露されたこともある。暴露されたP2メンバーには、イタリアの30人の将軍、8人の海軍大将、多くの銀行家、テレビ会社の取締役、閣僚、政治家、シークレット・サービスのチーフ、財政検査官のトップが加わっていた。もちろんヴァチカンの最高階級もいた。
第1次世界大戦では、フリーメーソンはオーストリア大公の暗殺を立案実行し、イエズス会はオーストリア・ハンガリー帝国をけしかけた。セルビアのディミトリエヴィチ大佐は、「黒手組」という秘密組織の首領でアピス大佐と呼ばれていた。アピス大佐は1903年、セルビア王アレクサンドルと王妃ドラガを暗殺し、クーデターを成功させて王朝を交代させ、自らは情報局長官に就任し。1914年6月28日、セルビアでオーストリア皇太子の歓迎パレードが行われた。オーストリア警察は、皇太子の車が通る沿道に警備らしい警備も置いていなかった。後ろのシートに皇太子夫妻を、前のシートにボスニア知事を乗せたベンツが市役所前に差しかかったとき、突然、オープンカーにバラの花束が投げ込まれた。花束から煙が立ち上っているのを見た皇太子は、とっさに花束を沿道に投げ捨て、その直後に花束は爆発し、沿道にいた大勢の人が怪我をした。皇太子夫妻は危機一髪で命拾いした。ところが、こんな大事件が起ったにもかかわらず、市役所でのレセプションの後、大公の一行は再び同じ車に乗って帰ることになった。そして、なぜか先導車が道を間違えて、脇の路地に入り込んだ。皇太子のオープンカーは2番目を走っていたが、前車の間違いに気付いて慌ててバックしようと急停車した。そのとき突然、皇太子の前にピストルを持った男が現れ、皇太子夫妻めがけてピストルを撃ちまくったのである。これが有名な「サラエボ事件」である。この事件が引き金となって、第1次世界大戦が開始された。
バチカン(ローマ・カトリック教会)は、この戦争で連合国をサポートし、イギリス政府とフランス政府がそれに協力したが、バチカンが期待していた権力奪回の希望は打ち砕かれ、バチカンの力は急速に衰退していった。そこでバチカンはイタリアのムッソリーニとドイツのヒトラーをサポートした。ヒトラーもムッソリーニもカトリック教会を擁護し、衰えつつある彼らの力を後押した。ヒトラーは、はじめ大きな力をカトリック教会に与えたが、後にはナチズムの異教性と野獣性を非難した4000人のカトリックの僧侶と修道士、多くのプロテスタントの牧師や信徒を殺した。
1929年2月、ムッソリーニと教皇庁が「ラテラノ協定」に調印し、イタリア政府はカトリックを国教と認め、バチカンは独立国家としての主権を獲得した。その4年後、バチカンとナチスの間で「ナチスはカトリック教徒を弾圧しない。バチカンはナチス・ドイツを祝福し、聖教者たちにナチスへの忠誠を誓わせるという、コンコルダート(政教条約)が結ばれた。
1939年11月8日、ミュンヘンのビアホールでヒトラー暗殺未遂事件が起こった。死者63名を出す爆発が起こったが、ヒトラーは演説を予定時間より早めに切り上げたために巻き込まれずにすんだ。爆発を逃れたヒトラーに、当時の教皇ピオ12世は祝福のメッセージを送った。神のご加護によってヒトラーは助かったというわけである。この暗殺未遂事件の直前、ピオ12世はローマで1人の密使と会っている。密使の名はヨゼフ・ミュラーで、ナチス・ドイツの軍諜報部少尉であった人物である。ミュラーは反ヒトラー・グループの一員で、クーデターおよびイギリスなど連合軍との和平交渉を計画し、その仲介役を教皇に依頼した。結局、クーデターも和平交渉も失敗に終わった。教皇はミュラーの提案に乗り気だったが、一方でナチスがソ連に侵攻すると「キリスト教文化を護るための高潔で勇気ある行為」と発表した。
第2次世界大戦で敗色が濃厚になると、ナチスは党幹部や高官を南米のカトリック国に脱出させた。マルティン・ボルマン(ヒトラーの側近で、ナチス末期の官房長官・副総統・党書記長)がイエズス会宣教師になりすまして南米に脱出したことは有名である。「リヨンの虐殺者」と呼ばれたクラウス・バルビーも、米情報部と国際赤十字がバチカンと共に作った逃亡ルート「ネズミの逃げ道」を通って、ドイツからボリビアに脱出した。
ちなみに教皇は、ナチスがユダヤ人大量虐殺を行ったときも、非難すらしなかった。そのため戦後、バチカンは存亡の危機に立たされた。そのバチカンの危機を救ったのがコーザ・ノストラ、すなわちマフィアであった。イタリアのシチリアを出自とするマフィアは、熱心なカトリック教徒集団でもある。彼らはホワイトハウスの中枢を動かし、連合軍の情報機関を説き伏せ、バチカンを存続させることに成功した。ボリビアに脱出したクラウス・バルビーは、CIAの手先となって情報工作に従事しながらマフィアからのリクエストに応え、南米のコカイン・ルートを整備し、麻薬をアメリカに送り出した。CIAとマフィアとバチカンによる三位一体は、世界各地で見られる。
最近、2人の正統的ユダヤ教徒が、第2次世界大戦でナチスに殺されたとされるユダヤ人の物語について衝撃的な内容の本を出版した。『裏切り』と『ホロコーストの犠牲者』である。彼らの証言によると、シオニストとユダヤ改革派はヨーロッパのユダヤ教正統派を「犠牲の生け贄」にした。彼らの他にも、正統的ユダヤ教徒が次々と、世界の権力の中枢にいるシオニストとユダヤ改革派による同胞への裏切りの真実を明らかにし始めている。ホロコーストの追究者であるミカエル・グリーンヴァルドは、イスラエルの高位の役職にあるルドルフ・カストナーがハンガリーのユダヤ教正統派の100万人の処刑の直接の責任者であることを発見した。ナチス第3帝国の移民局がシオニスト・ユダヤ人によって運営されていたことが判明したのである。
ロスチャイルド家と他のユダヤ改革派は第2次大戦前にドイツから逃れた。そして、アメリカをはじめとする他の国々の実権を握っていたユダヤ改革派は、第2次大戦前にユダヤ教正統派が移民することを禁止するように働きかけた。ヒトラーがユダヤ人を追放しようとした際、どの国も彼らを受け入れようとしなかったのは、そのためである。そして第2次大戦が終わるとシオニストは、ホロコーストを口実にイスラエル国家の建設を世界に認めさせた。ユダヤ教正統派はその犠牲にされたのである。ナチスに殺されたユダヤ人の大半は、シオニストや改革派と違って正統な信仰を保持していた真のユダヤ人であった。
第2次世界大戦後、カトリック教会は共産主義と戦うことを宣言した。これは「フラムの子ら」にとって好都合だった。彼らは冷戦を望んでいた。共産主義への恐怖を利用してCIAはカトリック教会に浸透した。最終的には冷戦は終結に導かれ、「新世界秩序(ニューワールドオーダー)」が創設され、彼らはカトリック教会を陰で操るのではなく実際にコントロールすることになった。
P2も、イタリアとバチカンを手に入れるためにCIAと共に働き、正式なフリーメーソン・ロッジがバチカンの中に建てられた。P2の資金の出所の1つがイタリア商業銀行であり、その重役に名を連ねているのがレバノン(ティルス)人エドムンド・サフラである。サフラは「地中海金融コネクション」の名で知られる地下経済シンジケートの一員である。
1958年、アルピーノ・ルチアーニがヨハネ23世によって主教に任命され、1969年にはベニスの総大司教に任命された。この時期にルチアーニはジョパンニ・ベネリによってバチカンの銀行からフリーメーソンの資金を奪う陰謀を教えられた。アルピーノ・ルチアーニはメーソンのカルヴィとマーティンクス主教のカトリック銀行から小さなサン・マルコ銀行に資金を移すP2資金調達計画にすっかり嫌気がさしてしまった。ルチアーニは1978年8月28日に教皇ヨハネ・パウロ1世になると、カトリック教会の改革に乗り出した。彼は教皇になった時、 戴冠を拒杏し、教皇を取り巻く罠となっている王制風のきらびやかな風俗を取り除いた。彼は自分の回りからフリーメーソンの人間を排除し、正直な人間に替えた。また彼は教会から富を排除し、P2によって行われてきた資産の横取りを調査し、明らかにし始めた。ところがバチカン内部の検閲者たちは彼の声明を検閲し、彼の名で偽りの声明を発表した。電話は制約され、彼の語ることは公式の記録から抹消された。そして教皇となって33日目(33はフリーメーソンの成熟を表すシンボル数字)の1978年9月29日午前4時半、尼僧ビンチェンツァが、ベッドに座ってメガネをかけ両手にメモを持ったまま死んでいるヨハネ・パウロ1世を発見した。ビンチェンツァがあわてて教皇の肩を揺さぶると、教皇の体はベッドの上に倒れ、彼が手にしていたメモが床の上に散らばり、いつも4時45分にかけてあった目覚まし時計が、けたたましく鳴り始めた。ビンチェンツァは近くの部屋で寝ている教皇秘書のロレンツィ神父やマッギー神父のもとに駆けつけ、マッギー神父の知らせで、下の階で寝ていた国務長官ヴィヨ枢機卿が駆けつけた。彼が教皇の死を確認したのが午前5時であった。ヴィヨ枢機卿はベッド脇のテーブルにあった降血圧の水薬のビンと、床に散らばっていたメモを拾い上げると、そそくさとポケットにしまいこんだ。法王のメガネや靴も消えてしまい、それらはその後どんなに探しても出てこなかった。
ヴィヨ枢機卿はビンチェンツァに、事件のことはしばらく口外しないようにと命じ、方々に電話をかけ始めた。間もなくヴィヨ枢機卿の知らせで駆けつけたバチカン医師団のブゾネット医師は、遺体を診た後、「死因は心筋梗塞、死亡時間は昨夜11時頃」だろうと診断した。これが午前6時頃のことであった。
ところがおかしなことに、葬儀屋のシニョラッチ兄弟社に、バチカンからの車が迎えに来たのは午前5時頃なのである。つまり、車は午前5時前にすでにバチカンを出発していたことになる。これはヴィヨ枢機卿が法王の死体を確認し、医師を呼ぶより前の時間である。
当然のように、「教皇は暗殺されたのだ」という声が上がった。次第に解剖を求める声が高まったが、ヴィヨ枢機卿は「教皇の死因は降血圧のエフォルチルの量を誤ったためである。もし解剖すればその薬が発見され、世間を自殺説や他殺説で騒がすことになるから、解剖はしない方がいい」と言って、解剖に強く反対したという。しかし教皇の侍医であるラーマ博士は「几帳面な法王が薬の量を間違えるなど、あり得ない。それに教皇が飲んでいたエフォルチルは、普通の高血圧の人が飲む量の半分〜1/3の量で、飲みすぎても生命にかかわるようなことはない」と証言している。
午後6時、教皇の遺体の防腐処置が始まった。ジェリン教授の指導のもと、シニョラッチ兄弟社が作業を行った。通常の防腐処置は血液を抜いてからフォルマリンを血管に注入する。しかし、このときヴィヨ枢機卿の「血液を抜くな」という命令で、彼らは3時間もかかって遺体から血液を抜かないまま大腿動脈と同静脈から防腐剤を注入した。一滴の血液サンプルもとらなかったので、血液検査を行うこともできなかった。さらにヴィヨ枢機卿は異常なほど遺体防腐処置を急がせた。イタリアの法律では死後24時間たたないと防腐処置はできないことになっている。歴代教皇はみな、その法律に従ってきたが、ヨハネ・パウロ1世の遺体はそれを無視しているのである。教皇の姪アマリア・ルチアーニは「叔父が心臓発作で死んだなんてあり得ません。叔父は心臓発作を起こしたことなど一度もありませんから」と言い、教皇の弟アドアルド・ルチアーニも「兄は3週間前の健康診断で十分な健康体と診断され、何の異常もありませんでした」と証言している。
1984年6月、イギリスで『神の名の下に』(デビッド・ヤロップ著)という本が出版され、大反響を呼んだ。ヤロップはヨハネ・パウロ1世が教皇になってからどんなことがあったのかを記している。その中でヤロップは、「ヨハネ・パウロ1世は暗殺されたのだ」とはっきりと断言している。「人を殺す毒薬は少なくとも200種類以上あり、なかでもジギタリスという毒薬は、死後、解剖が行われないなら、完全犯罪には格好の毒薬である。無色無臭無味のため、どんな食べ物や飲み物にでも混入させることができ、遺体を見ただけでは、心臓発作と少しも代わらない・・・」。
ヤロップはジギタリスを注入したのは前の晩だろうと推理する。教皇はいつも枕元のテーブルに目覚まし時計と水薬のビンを置いているので、その水薬にごくわずかのジギタリスを注入すれば簡単に毒殺できるというのである。メガネと靴が紛失した点については、彼は、ジギタリスを飲むと吐くため、その飛沫がメガネや靴に散ったのだと推理する。そのため発覚を恐れて始末したのではないかというのである。心臓専門医からみれば、死因を心臓発作とするには、その患者を長く診てきた医師が、死ぬ間際の心臓発作を見届ける必要がある。教皇の死因を心筋梗塞と断定したブゾネット医師は、ヨハネ・パウロ1世の主治医ではないのである。
では、事件前日にいったい何があったのか。1978年9月28日の午後5時半、バチカン教皇庁の国務長官ジャン・ヴィヨ枢機卿は、ヨハネ・パウロ1世から呼び出された。ヴィヨ枢機卿が手渡されたのは、教皇自身が書き上げた人事異動リストだった。そこには教会史上例をみない大量の解職者の名前がつらねてあった。しかも、枢機卿、大司教、司教という上位聖職者が大部分を占めていた。たとえば、カザロリ枢機卿、ローマ副司教ボレッティ枢機卿、バチカン銀行総裁マーティンクス司教、ベネッリ枢機卿、そしてヴィヨ枢機卿自身の名もあった。その全員に共通しているのは唯一、彼らがフリーメーソンのイタリア支部「P2」の会員であることだけであった。
ヨハネ・パウロ1世は、人事担当の国務長官であるヴィヨ枢機卿の考えを尋ねた。ヴィヨ枢機卿は、この人事を思いとどまるよう言葉を尽くして説得したが、教皇は「私はただ、イエス・キリストの意思のままに行おうと決意したまでです」と言って、聞き入れなかった。そして2時間がたち、ヴィヨ枢機卿は「教皇であるあなたがお決めになることですから・・・」と答えた。
ヴィヨ枢機卿が退出した後、教皇は午後7時50分頃、3階の食堂で2人の秘書神父と共に夕食をとった。その後、教皇は書斎に戻り、人事異動表に再び目を通してから、ミラノのコロンボ枢機卿を電話で呼び出して人事について打ち合わせをした。コロンボによると「教皇の声はいつものとおり陽気で、具合の悪そうな感じはまったくなかった」という。
9時15分に電話が終わると、教皇は9月30日にイエズス会で行う予定になっている演説の原稿に手を加え、その後、書斎のドアを開いて、控え室にいる秘書のマッギーとロレンツィに「おやすみなさい。また明日」と挨拶した。午後9時30分頃であった。そして、それが教皇の最後の言葉となった。
ヨハネ・パウロ1世によって運命が大きく変えられようとしていたのは、ヴィヨ枢機卿だけではない。「神の金庫番」と言われるバチカン銀行(正式名称はIOR=宗教活動協会)総裁のマーティンクス司教、大銀行家のロベルト・カルヴィ(アンブロジアーノ銀行頭取)とミケーレ・シンドーナ(マフィアと深い関係を持つとされるシチリアの銀行家。彼も厳重に警戒されているはずの獄中で服毒死した)、フリーメーソンのイタリア「P2」支部長のジェッリも同じである。
ポール・マーティンクス司教は、シカゴ教区司祭をしていたとき、シカゴ大司教の目にとまり、1952年にその推薦でヴァチカンの国務省に入った。その後、身長2メートル、体重200キロという巨体を見込まれて教皇パウロ6世のボディガード兼個人通訳を務めるようになる。その後、バチカン内に勢力を拡大していき、1971年にヴァチカン銀行総裁に抜擢された。なお、教皇パウロ6世もメーソンだったと言われている。
カルヴィは、フリーメーソンP2事件の中心人物であった。この事件で、イタリアの政財界、警察、司法関係幹部、高級官僚、陸・海・空軍関係者、マスコミ関係者など963名がフリーメーソンP2支部の団員だったことが発覚した。その中に、サルティ司法大臣、スオスキ労働大臣、マンカ外国貿易大臣の3人の現職閣僚がいたため、当時のフォルラニ内閣は総辞職に追い込まれた。カルヴィは1981年6月18日、ロンドンの都心を流れるテムズ川のブラック・フライアーズ橋で、首吊り自殺死体で発見された。遺体のポケットにはP2を暗示する2個の大きな石と、2万ドル相当の米ドルとスイス・フラン紙幣、偽造パスポートが入っており、内ポケットにはフリーメーソンの印章が縫い付けられていた。
マーティンクス司教は、バチカン銀行総裁の立場を利用して、シンドーナ、カルヴィ、ジェッリらにバチカン銀行の資本を不正に融資し、互いに私服を肥やしていた(判明しているだけでもバチカンはアンブロジアーノを通じて数10億リラの資金をイタリアから海外に不正流出させている)。かつてピオ12世がバチカン銀行を設立したときは、ほとんどの口座がカトリック関係者のものであったが、マーティンクスが総裁になってからは、口座数は1万1000に 膨れ上がり、その中でカトリック関係者の口座はわずか1000ほどであった。残りの多くはフリーメーソンP2をはじめとする黒い勢力の資金源として利用されていた。
この4人が、ヨハネ・パウロ1世の動向を身の細る思いで見つめていたことは間違いない。そして、バチカン国務長官ヴィヨ枢機卿はじめ、バチカン内のフリーメーソン・メンバーも同様であった。
1981年、ベネッリ枢機卿が世を去った。フリーメーソンから抜けようとして殺されたとも言われる。死因は、ヨハネ・パウロ1世と同じ、 心筋梗塞だった。
P2の、銀行を舞台とする陰謀は、イタリア政府を崩壊させた。不思議なことに教皇の死後に、それに関わったジーン・プィレットのような人々が次々と死んでいった。それが仲間による証拠隠滅工作だったか、神の罰だったかは知る由もない。生き残ったのはただ1人、マーティンクスだけであった。マーティンクスは旧ソ連から早々と独立宣言したバルトのリトアニア移民である。ネルソン・ロックフェラー元副大統領を叔父に持つウィンスロップ・ロックフェラー・ジュニアの母親は、リトアニア貴族の末裔イエヴュテ・パウレキテである。共産圏工作にバチカンが果たした役割は決して小さくはなかった。この共産圏ルートからカルロ・ボイチワ・クラクフ大司教が、共産圏から初めて誕生した教皇ヨハネ・パウロ2世となった。
「赤い国」からの教皇ヨハネ・パウロ2世は、一見善良で、苦労しているように見えた。しかし、彼はポーランド出身のユダヤ人で、フリーメーソンである。彼の教皇制の下で、P2ロッジによるバチカンの財政取奪とメーソンによるカトリック教会のあらゆる階級への浸透が続いた。そのためにロックフェラー一族はバチカンの学校とプロジェクトに多額の金を支払った。ローレンス・ロックフェラーはカトリックのニューエイジ僧侶マシュウ・フォックスを後援し、彼は『宇宙的キリストの来臨』という本を書いた。他にもケニス・ワブニックのようなニューエイジ・カトリック者がニューエイジの福音を伝えている。ヨハネ・パウロ2世の下でバチカンは、近代史上最大規模のプロジェクトを遂行した。 カトリック教会は「新世界秩序(ニューワールドオーダー)」の一環としてポーランドの「連帯」運動を創設した。1986年だけでカトリック教会から「連帯」に1億ドルが送られたと見積もられている。この運動が起こる前にロシアの通報者によって、その計画の詳細が明らかにされた。それによると共産主義者たちは東ヨーロッパを解放し、ヨーロッパとロシアの合体を図り、来るベき大ヨーロッパを中心とする世界統一政府を作るという。
ヨハネ・パウロ2世はバチカンの重要なポジションにメーソンを配置した。今やカトリック信者は教会の公式の機関紙からフリーメーソンのプロバガンダを聞かされている。アメリカ・カトリック・マガジンの91年5月号はまるでフリーメーソンの募集記事のようである。その記事にはレンガや鉛管工やコテなどの絵が描かれ、「フリーメーソンは月毎に集まって昔風の儀式をします。単なる社交のために。それは大人のボーイスカウトです。今日、メーソンは本質的に温和な奉仕団体なのです」と書かれ、最後に「あなたも歓迎します」とある。
バチカン内部におけるメーソンのメンバーは分かっている主要メンバーだけでも次の通りである。前国務長官(バチカンのナンバー2。総理大臣に当たる)のアントニオ・カザロリ枢機卿(1957年9月28日入会)、セバスチアポ・バッキオ枢機卿(1957年8月14日入会)、世界的にカリスマ制新運動を推進しているレオン・ジョセフ・スーネンス枢機卿(1967年6月15日入会)、バリス・ルトジンガール枢機卿、「すべての宗教の世界教会」運動を進めているピクメドオリ枢機卿、コエニング枢機卿など。なお、元国務長官のジャン・ヴィヨ枢機卿、バチカン銀行の総裁ポール・マーティンクス大司教などもそうである。他に教会幹部聖職者の名前だけでも列挙すると、フィオレンゾ・アンジェリネ(1957年10月14日入会)、パスクァレ・マッキ(1958年4月23日入会)、ヴィルジリオ・レヴィ(1958年7月4日入会)、アレッサンドロ・ゴッタルディ(1959年6月13日入会)、フランコ・ビッフィ(1959年8月15日入会)、ミッシェレ・ペリグリノ(1960年5月2日入会)、フランシスコ・マルキサノ(1961年3月4日入会)、ヴィルジリオノエ(1961年4月3日入会)、アルバーアレ・ブーニーニ(1963年4月23日入会)、マリオ・ブリーニ(1969年入会)、マリオリッチィ(1969年3月16日入会)、ピォ・ヴィトピント(1970年4月2日入会)、アキレ・リーナルト、ジョゼ・グリヒ・リベラ、ミキュエル・ダリオ・ミランダ、セルギオ・メンデス・マトケオ、そしてフランシスコ修道会のフェリペ・クエト、などである。以上数えあげればきりがないが、分かっているだけでもバチカン内部に実に121名のメーソンがいる。
フリーメーソンの最終目的は、神不在のテクニカル・ユートピア実現による全人類の奴隷支配である。彼らは自らが作った「富」によって世界の政治・経済を支配し、世界の主要な通信・商業・エネルギーを支配している。約9億人の民を有する世界最大の宗教組織ローマ・カトリックも彼らの手中にあり、プロテスタントも彼らによる支配が完成したと言っていい。
イタリアを統一したフリーメーソンのガリバルディは、1872年にこう述べている。「我々の最終目的はカトリック信仰の絶滅だ。ユダヤ人がメシアを待望するように、この最終目的に同意する1人のメーソンの法王を、待ち望むのだ。若者や幼子のもとに出かけていき、フリーメーソン思想を浸透させよ。とくに大学生や聖職志望者たちの注意をひきつけるようにせよ。それらの若き聖職者たちは、数年のうちに教会のあらゆる重要な地位を手に入れよう。彼らは君臨し、統治し、裁きを実施するだろう」。ガリバルディが予告したバチカン攻略は成功した。
特に、1962年の「第2バチカン公会議」は、「フラムの子ら」にとって絶好の機会となった。ヨハネス23世(在位1958〜1963年)による「開かれた教会作り」という主旨のもと、3年にわたって開かれた公会議には、全世界から計2865人の高位聖職者が集まった。この会議で「フラムの子ら」は「革新」「改革」を切り札に、彼らに都合のよい方向に引き寄せた。そして1964年、バチカンは「世紀の大改革」ともいうべき大方針を打ち出した。1つは、教会の刷新、いわゆるエキュメニカル(キリスト教統一主義運動)の推進による全キリスト者の再一致統合、教会一致である。そしてもう1つは、信教の自由の名のもとにキリスト教以外のヒンズー教・イスラム教・仏教などを基本的に神の啓示として認める方向で連帯することを決定した。これにより唯一絶対の一神教は修正された。第3に、諸国のあらゆる現代戦争に無条件に反対し、軍備撤廃を強力に要求し、世界の恒久的平和を実現するための制度的な措置として『世界共同体』を形成する重要性を強調した。
バチカン公会議はパウロ6世によって継承され、彼はエルサレムのオリーブの丘で、ギリシャ正教の総大司教アテナゴラスと歴史的な和解を行い、900年にわたる教会分裂に終止符を打った。東方教会とプロテスタントは今日、世界教会協議会(WCC)をもっており、すでにエキュメニカルを始めている。WCCの参加教団は約200教団、約6億人の信者を有している。英国では、プロテスタントの指導者の25%がメーソンだといわれている。プロテスタントはすでにフリーメーソンに支配されている。「フラムの子ら」の理想がエキュメニカルであり、この大戦略を始めたのもプロテスタントのWCCである。
これを機会にカトリックでは 世界的に修道会の規律はゆるみ、祈りやミサは軽んじられ、教会は急速に活力を失っていき、短期間に数10万人もの聖職者が修道会を退会していった。特に「フラムの子ら」が暗躍したオランダでは、4000人余りのシスター、2000人の神父が還俗し、アメリカでは1966年の1年だけで約5万人が修道会を脱会したといわれる。