フラムの子らによる共産主義の樹立
1717年6月24日、「フラムの子ら」はロンドンで近代フリーメーソンのグランド・ロッジを結成した。「フラムの子ら」はその後、パリ、プラハ、マドリード、イタリア、ボストンと、またたく間にヨーロッパ中にメーソン・ロッジを拡げ、1733年には126ロッジを数えるまでになった。彼らは、彼らの神である「全人類が一致して信仰できる神」をかかげ、その彼らの神こそが「宇宙創造の神」だとした。
カトリック内にも多くのフリーメーソン・メンバーが拡がっていったが、1738年に法王クレメンス12世が「フリーメーソン否認の勅命」を発布し、メーソン員は破門されることになった。そこでメーソン員は自らの正体を隠し、やがて隠れ蓑として1773年に地下組織である秘密結社「フランス大東社」を結成。「フランス大東社」はイエズス会の修道院内に居をかまえ、後にフランス革命を指導するオルレアン公となるルイ・フィリップを長とした。
「フランス大東社」が作ったロッジでは進歩的な貴族やブルジョア、労働者が一体となって、フランス革命前夜の「自由・平等・博愛」を求める世論を形成していき、会員数を増やしていった。やがて彼らは市民運動の名のもとに1789年、バスチーユ監獄を襲撃。ここに、フランス革命の火ぶたが切って落とされた。オルレアン公ルイ・フィリップは自分の宮殿にメーソン員を集め、そこを司令部とし、騒乱をあおるために膨大な資金を提供した。
現代教育の基礎ともなっている 『百科全書』は、彼らフリーメーソンが1751年に、ディドロとダランベールを中心に手がけ始めたものである。百科全書家のダランベール、ホルバッハ、ヴォルテール、コンドルらは、いずれもメーソン員である。これらの集団から、「百科全書のロッジ」とも呼ばれるロッジ「9人姉妹」が結成され、ベンジャミン・フランクリン、ヴォルテール、ラ・ロシュフコー、ラファイエット、シエース、デムーラン、ブリソーらが属していた。さらに彼らのもう1つのエリート・ロッジ「大貴族」には、ミラボー、ボーアルネ、ボーマルシェらが属していた。
1789年に発布された「人権宣言」は、ラファイエットが中心となって、メーソンのロッジで作られた。48名のフランス貴族がメーソン員で、宮廷に出入りする外交官のほぼ全員がメーソン員であった。将校の軍事ロッジや下士官のロッジも作られ、1385名いた軍事ロッジ・メーソン中の1032名が将校であった。彼らにより、革命勃発後、フランス軍は市民運動と連動して国王を見限り、革命側についたのである。この革命運動は上層知識人から市民にまで広がり、議会内にも支持層を獲得し、大きな民主主義運動となって、1791年の憲法発布となった。ロベスピエール、ブリッソー、ダントン、マラー、デムーラン、エベールなど、運動の主な担い手の大半がメーソン員であった。
時を同じくして、彼らはアメリカ新大陸にも上陸した。全世界を彼らのものにするための足ががりとなる、彼らの国を新大陸に築くためである。アメリカでは1607年の清教徒(ピューリタン)によるジェームズタウンの植民が宗教的開拓の初めであるとされ、ついで1620年12月21日にピルグリム・ファーザーズ(巡礼父祖)と呼ばれる清教徒たちがメイフラワー号でプリマスに上陸し、信仰と自由と独立を求めて植民したと信じられているが、この建国神話は事実ではない。
メイフラワー号の乗客102人のうち、清教徒・分離派教徒はわずかに35人にすぎず、あとは植民地でひと旗揚げようとした英国国教会の信徒であった。その後、さまざまな宗派がアメリカに移り住んだが、やがてアメリカに「フラムの子ら」が上陸する。彼らが入ったのは、1720年代の後半である。
1733年、ボストンに彼らの最初のロッジが開かれ、ヘンリー・プライスがイギリスのグランド・ロッジの承認を得てグランドマスターになり、その後、13植民地にロッジが広がった。彼らは「信仰覚醒運動」または「再生主義」と呼ばれる運動(聖霊降臨によって再生するとして集団を鼓舞し、信仰に招き入れるという集団的群集心理を利用した伝道)を用いて、教会内に浸透していき、教会を乗っ取り、その手法で次々と教会を拡大していった。
アメリカの国教は当初からキリスト教もしくはプロテスタントだったと誤解されているが、アメリカ憲法修正第1条は、国家宗教の樹立を禁止している。1796年、ワシントン大統領はトリポリ条約で「いかなる意味においても、アメリカ合衆国はキリスト教国家ではない」と宣言している。アメリカ合衆国がキリスト教国家だと言い始めるは、20世紀に入ってからなのである。実際、ヨーロッパからアメリカに移住した大部分の人々は、宗教の自由を求めて海を渡ったのではなく、宗教からの自由を求めて渡って来ていた。 1850年の統計によると、当時のアメリカ人のうち教会に登録していたのは人口の16%にすぎなかった。新大陸の人々をまとめていたのはキリスト教ではなく、フリーメーソンの思想だったのである。そして、フリーメーソンが乗っ取った教会が、キリスト教の仮面をかぶり、遂にはアメリカ合衆国がキリスト教の仮面をかぶったフリーメーソン国家となっているのである。
フリーメーソンがアメリカ新大陸にその野望を確立するために通過しなければならなかったのが、アメリカ独立戦争であった。「9人姉妹」ロッジのラファイエットは1777年、アメリカの独立戦争を助けるため、自費で軍隊を率いてジョージ・ワシントンの軍事ロッジに加入し、共に独立のために戦った。その前年、すでにベンジャミン・フランクリンはアメリカの新共和国の外交代表としてフランスを訪れ、パリの「9人姉妹」ロッジの第2代大統領として、アメリカ独立へのフランス人の同意を広め、独立戦争への支援を得ることに成功していた(彼は1731年にメーソン員となり、稲妻と電気の関係を証明したことをはじめ、自然科学の分野で業績をあげ、イギリスのロイヤル・ソサエティとフランスの科学アカデミーの会員になった。メーソン独自の自然科学で科学界にも革命運動を推進し、フランクリンはフリーメーソン人脈を利用し、独立戦争でフランスをアメリカと同盟させ参戦させた)。
アメリカ建国の父ジョージ・ワシントンもメーソン員である。彼は1752年にメーソンになった。独立戦争が始まると、軍隊では盛んに「軍事ロッジ」が創設され、ワシントンは軍事ロッジの先頭に立ち、メーソンの正装をし、行進した。1787年にはアメリカ合衆国憲法が制定され、1789年にワシントンが初代大統領に就任した。このときワシントンは、ニューヨーク・グランド・ロッジのグランドマスターであった。同年、連邦議会の行政機関としての国務、財務、陸軍、司法の4省を設け、アメリカ政府の重要な機構を確立した。その長官に任命されたのは、国務長官トーマス・ジェファーソン(後の第3代大統領)、財務長官アレクサンダー・ハミルトン、陸軍長官ヘンリー・ノックス、司法長官エドモンド・ランドルで、副大統領はジョン・アダムス(後の第2代大統領)であったが、その全員がフリーメーソンである。ジェファーソン、アダムスと共にアメリカ独立宣言を起草したベンジャミン・フランクリンもフリーメーソンである。
独立宣言は彼らの宗教的信条、自然法観、自由と平等という政治的理念をあらわしており、フランスの人権宣言と共通している。ただし、第2代大統領ジョン・アダムスは後に後悔して考えを変え、「私はイエズス会の再登場を嫌う。この地上や地獄で苦しみを受けるのが当然の人間がいるとしたのならば、それはロヨラ(イエズス会の創設者)の社会である。それにもかかわらず、我々の宗教的な寛容のシステムにより彼らに亡命を申し出さざるをえない。」と語っている。
1793年、連邦議会の議事堂がワシントン・D・Cに建設されることになったが、ジョージ・ワシントン大統領はその礎石式に堂々とフリーメーソンの儀式用礼服を着用して出席した。胸にはメーソンの標章をつけ、列席者もすべてメーソンの礼服と標章を身につけていた。有名なワシントン記念塔(オベリスク)も、メーソンの力で建立された。
1861年〜65年の南北戦争についてエイブラハム・リンカーンは、「この戦争はイエズス会の邪悪な影響なしには決して起こることはなかった。」「私はイエズス会が決して忘れることもなく、見切りをつけることもないことを知っている。しかし人はどのようにして何処で死ぬか心配すべきではなく、名誉と義務の過去においてその死が用意されるものである。」 と語り、暗殺された。
1886年、フランス政府はアメリカ独立100周年を記念して「自由の女神」像を贈るが、その制作者フレデリック・バルトルディもメーソンである。アメリカがキリスト教国家を装ったフリーメーソンの国家であることは、アメリカ合衆国の国璽(国章)に明確に刻まれている。国璽の裏側には未完成のピラミッドが描かれ、冠石の位置に「万物を見る眼」(フリーメーソンの象徴)が描かれている。この絵は1ドル紙幣の裏側にも描かれている。
1923年にジョージ・ワシントンがフリーメーソンであったことを記念してワシントンに建てられた「ジョージ・ワシントン・メソニック・メモリアルホール」には、これらの歴史の記録が保存されており、メーソンだった歴代大統領の名前も列記されている。メーソンでない大統領は、ニクソンら、数えるほどしかいない。
<アメリカ合衆国の国璽の表面(左)と裏面(右)>
メーソンはロシア革命にも、大きな影響を果たしている。帝政ロシアにメーソンが入ったのは、18世紀初めのピョートル大帝の時代である。自身も英国滞在中にメーソンになったというピョートル大帝の支援を得て、イギリス人のジェームス・ケイス将軍は、ロシアに着実にメーソンの思想を普及させていった。
1740年にロシアのグランドマスターになったケイス将軍は、モスクワとペテルブルクを地盤に布教活動を行い、1750年には分散していたメーソン支部を統一するため、モスクワに「ラ・ディスクレシオン」ロッジを設立した。
18世紀のロシアの女帝エカテリーナ2世もメーソンに好意的で、その影響で貴族や軍人の多くがメーソン員になった。しかしメーソンによるフランス革命で、君主制の危機を感じたエカテリーナは、1794年に突然すべてのロッジを閉鎖するよう命じた。帝位を継いだ息子のパーヴェル1世も1797年にメーソン禁止令を出したが、その3年後にメーソン員ヤシュヴィル侯爵らに暗殺された。
19世紀初頭に即位したアレクサンドル1世は、メーソン勢力が強いポーランドを懐柔するため、いったんはメーソン禁止令を解いたが、メーソンによるイタリア革命勃発に危機を感じて、1822年に再びメーソン禁止令を出した。その3年後の1825年12月1日、彼は謎の怪死をとげた。その1週間後、「デカブリストの乱」(ナポレオン戦争に出征しメーソン員になった士官らが帝政に反対するロシア内のメーソンと結んだ暴動)が勃発。新皇帝のニコライ1世は武力でこの乱を鎮圧し、翌年の4月にさらに厳しいメーソン禁止令を発令した。
この時期、キリスト教会は本格的な反キリスト教思想に直面していた。この頃ヨーロッパを席巻した「啓蒙思想」の中心は『弁証法』のヘーゲルに代表されるが、シュトラウスの『イエス伝』(イエスの人格とキリスト教の理念を区別したイエス像を論じた)に関する論争から右派・左派・中間派に分かれた。
ヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)のフォイエルバッハは、唯物論の立場から『キリスト教の本質』を発表し、その中で「神は人間の願望の反映である」と論じた。これがマルクスやエンゲルスに大きな影響を与え、マルクスは「宗教批判はフォイエルバッハをもって終わった」と言った。マルクスは、ヘーゲルの弁証法は観念論の枠内でのことで真の意味での矛盾対立、その止揚になっていないと言い、真の意味での矛盾対立とその止揚は社会的階級の間のものであるとし、『共産党宣言』をエンゲルスと共に起草した。その第1章に、「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と記し、これが共産革命の火ぶたを切って、革命と言う名の階級闘争の地獄を地上にもたらしたのである。マルクスは「宗教は階級闘争において常に支配階級によって悪用されてきた」とし、「宗教は人民の阿片(アヘン)である」と指摘した。これにより宗教者たちは次々に血祭りに上げられていくことになる。
また、デンマークのキルケゴールも、思弁の世界での弁証法は弁証法の名に値しないと考え、実存主義(人間は未知の世界に、案内者なしに出で立つことができる実存である)を主張する。キルケゴールは、主体性によってのみ(客観性を否定してのみ)絶対なる神は人間に知られるものとなり、同時に人間も主体性の喪失された状態から脱出して本来的な人間になるとし、そしてこれが人間イエスが神の子キリストであるという逆説にほかならないとした。キリスト教は彼によって近代神学(革命的神学)への道を進み出すことになった。その後、ショーペンハウエル、ベルグソンらがキリスト教に対して批判的な哲学を展開。特にニーチェは反キリスト教思想を徹底した。
ニーチェは、キリスト教が伝統的に神に対して人間を「奴隷の道徳」で縛り、生を弱体化させ、彼岸の天国という妄想に憧れさせて、現実世界に否定的にさせたとした。しかし神に対するとらわれを人間の心から追放することは不可能である。だから積極的に神を殺してしまわなければならない。そして「神は死んだ」と宣言した。しかしこのことは、人間が宇宙の中で、神なしに孤独に生存していかなければならないということになる。そこで立ち現れるのが「超人」である。ニーチェは晩年、発狂したが、その思想はナチスに利用された。
そしてキリスト教に決定的ともいえる大きな衝撃を与えたのが、ダーウィンの『自然淘汰による種の起源』であった。彼の、適者生存と自然淘汰を骨子とした進化論は、人類や生物の起源が数千年前に神によって創造されたものだというキリスト教の浅はかな聖書論的宇宙観を覆した(もちろん聖書には人類や生物の起源が数千年前に神によって創造されたなどとは書かれていない)。ダーウィン自身は「進化は創造主の働きである」と言っているのだが、反キリスト教思想に大いに利用されることとなった。
こうした近代思想をカトリックは徹底的に否定した。1864年には回勅『クァンタ・クーラ』を発布して、共産主義・社会主義・自然主義など一切の近代主義的思想を否定する宣言をしたが、そのわずか6年後の1870年にイタリアが統一され、ローマがイタリア王国の首都になって、教皇の俗権掌握は終わりを告げた。これに抵抗してカトリック教会は1869〜70年にヴァチカン総会議を開き、教皇無謬(むびゅう)説を教理として制定した。これは教皇が「教皇の座」から発した決定は、それ自体において不可謬である(絶対に間違いがない)とする教理であるが、もはや空しさに輪をかけるだけであった。 1871年、イタリア国会は教皇の身分を保証する法律を通過させて、教皇に主権者たる地位・外交交渉権・325万リラの年金を保証した。つまりイタリア国が、教皇を養ってやるという立場になった。これに対して教皇ピウス9世はイタリア王を破門し、同法を認めず、ローマ教皇がヴァチカンから外に出ない状態が続いた。
カトリックの中にも、キリスト教会のそれまでの聖書論への批判的研究や、教理の発展についての歴史的考察を行っている人たちはいたが、カトリック教会はそれをすべて異端とし、教皇ピウス10世は1907年の回勅『パスケンディ』で、彼らを破門した。1910年には、カトリックの聖職者から近代主義に反する誓約書を要求した。ピウス11世は、回勅『フマーニ・ゲネリス』によって進化論を攻撃し、1950年には聖母被昇天の教義を宣言した。これは聖母マリアは死後、霊魂だけではなく肉体をもって昇天したという教義である。まったくの創作と言っていい。1925年、ファシスト党のムッソリーニが政権を掌握し、ファシスト政権を樹立。独裁体制を宣言した。ムッソリーニは自らの国際的地位を高めるためにローマ教皇庁との緊張関係を和らげようと画策し、ローマ教皇はムッソリーニと手を結んで自らの地位を確保しようとして、互いの利益のため1929年に、ローマ教皇とムッソリーニ政権下のイタリア王国との間にラテラノ協約が締結され、ヴァチカン市国が成立した。これが現在のヴァチカンのルーツである。
ただ、こうした近代主義は、神やキリストに反するというよりはむしろ当時のキリスト教の不純な部分をふるい落としている面もあり、本来的なイエスの教えを引き出すために役立った側面もある。それに対するカトリック教会の態度は常軌を逸しているというほかない。
こうした歴史の流れの裏面で、ロシアのメーソンの指導者であったモスクワ大学教授のコワレフスキーは1887年、パリ滞在中に同志と共に「コスモス」ロッジを創立。1906年にモスクワとペテルブルクにメーソン・ロッジを設立し、同年にそれを地盤として国会議員に躍り出た。 彼の布教により国会議員、将校、学者、市民が次々にメーソン化していき、1916年には大東社系だけでも50以上のロッジができ、ロシア最後の皇帝ニコライ2世の時代には国会議員のほとんどがメーソン化していた。
こうして1917年、2月革命で帝政ロシアは倒され、ケレンスキー政府が樹立された。その政府も10月の共産革命で倒され、共産主義政権が樹立される。革命を指揮したレーニンやトロツキーも、メーソンの援助でロシア革命を達成したのである。彼らのやり方は、対立する双方に武器や資金を調達し、次第に世界変革という目的を実現させるのである。彼らのこのやり方は、世界中で実行された。日本の明治維新も同様であった。
学校教育では「ロシアの共産主義革命が成功したのは、帝政に反感を持つ農民たちの支持があったからだ」と教えられているが、このようにして歪曲した歴史を百科辞典や学校教育を利用して世界中に普及させているのも、彼らである。
レーニンとトロツキーは、皇帝が退位してケレンスキー政府が樹立してから、しばらくの間、ロシアを離れている。 その間、レーニンはスイスに滞在し、トロツキーはニューヨークで記者生活をしていた。2人はロックフェラーとつながりの深いドイツ人のマックス・ワールブルクと、アメリカ人のパウル・ワールブベルの資金援助を受けながら、共産主義革命の準備を着々と進めたのである。そして革命の準備が整うと、トロツキーはカナダ経由でアメリカからロシアに帰り、レーニンは名高い封印列車(途中乗降が禁止された列車。ワールブルクはロシア革命のためにレーニンを送り込んだ)でチューリッヒからドイツ経由でペテルブルクに送り込まれた。その後、2人は協力して 賄賂、陰謀、テロなど、ありとあらゆる手段を用いてペテルブルクの支配権を握った。こうして世界初の社会主義国ソビエト連邦共産党の一党独裁政権が樹立された。
ソ連は後にペレストロイカによって崩壊し、続いてドイツのベルリンの壁も崩壊、東ヨーロッパは次々に民主化していき、EC統一となる。東西冷戦の時代は終焉し、世界中が「ついに世界に平和が訪れた」との思いに沸きかえった。もはや核兵器の恐怖も過ぎ去ったかに思われた。これらを実施したゴルバチョフ、西ドイツのコール首相、フランスのミッテラン大統領は、いずれもメーソン員である。中でもミッテランはメーソン高位の「300人評議会」のメンバーである。1993年1月1日、欧州共同体ECが統合されたのは、メーソンの手によってであった。
EC運動を最初に唱えたのは、オーストリアの政治学者でメーソン員のカレルギー伯爵である。彼はウィーンのメーソン・ロッジ「フマニタス」の主要メンバーで、世界をアメリカ・ブロック、ヨーロッパ・ブロック、イギリス・ブロック、ソ連・ブロック、アジア・ブロックに分けて世界政府を設立するという構想を抱いていた。
カレルギー伯爵はまずヨーロッパ・ブロックから着手した。 イギリスのチャーチルの支援でこの運動は軌道に乗り、1952年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、1958年に欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(EURATOM)が設立された。そして、1967年にヨーロッパ6カ国によるECが発足。その後、6カ国が加わって12カ国の経済統合体となった。そして1986年に「単一ヨーロッパ議定書」が決議され、1992年にEC内の物資・労働・資本・サービスの完全自由化を実現させることが決定した (旧ソ連は世界最大のイスラム国家でもあった。しかし帝政ロシア時代から権力者たちは強烈に「自分たちはヨーロッパ人である」と思ってきた。彼らのヨーロッパ思考はイスラム恐怖症の現れでもある。アフガニスタン紛争が起ったのも、イランで生じたホメイニのイスラム革命の波が自国にまで押し寄せて体制を浸食することへの恐れであった) 。このECがEUとなったことは承知のとおりである。
EUは、欧州では別名「カトリッククラブ」と呼ばれている。カトリッククラブとは、ローマ教会同盟という意味である。EUは、ヨハネ黙示録の中で「大淫婦バビロン」(カトリック教会)をその頭に載せている陸の獣(666)の国になるために作られた。次の項でその解き明かしをあきらかにする。
ちなみに日本のキリスト教は、明治6年(1873年)にキリシタン禁制の高札が撤去されて、文明開化と共に受け入れられたとされる。キリスト教を近代で最初に受け入れたのは、諸藩の武士階級出身の青年たちであった。植村正久が出た横浜バンド、内村鑑三や新渡戸稲造の札幌バンド、小崎弘道や海老名弾正らの熊本バンドが最初期の源流であるが、彼らは皆、武士階級出身の青年たちであった。
明治から昭和にかけて天皇絶対主義の日本にあって、日本のキリスト教は文明開化の名の下に妥協してきた。その中で内村鑑三は明治24年に天皇絶対制と衝突し(不敬事件)、無教会主義になった。大正時代になると、ロシアの共産主義革命やいわゆるデモクラシーの影響で日本でも社会主義運動が活発となり、日本のキリスト教も個人主義や社会運動に対応した。個人主義に対応したキリスト者の代表が高倉徳太郎であるが、晩年、うつ病にかかって自殺した。社会主義に対応したキリスト者の代表が賀川豊彦で、彼は神戸新川の貧民窟で伝道を始め、神戸川崎造船所のストライキを指導し、公娼廃止や少年少女保護などに挺身した。
昭和に入り、軍国主義体制が確立されていき、昭和14年に宗教団体法が帝国議会を通過すると、キリスト教諸教会はこの法律に従って翌15年の奉祝大会を機に合同することに決め、翌16年に結成されたのが「日本基督教団」である。そこにキリスト教的な名目はみじんもなかった。軍国主義への屈服と天皇崇拝への賛同が生んだ教団である。その翌年の昭和17年には、教団の統理が伊勢神宮に参拝して教団結成を天照大神に報告するという有り様であった。
こうした中で、内村鑑三の弟子であった矢内原忠雄がキリスト教信仰の立場から日本の満州政策や中国侵略を批判して東大教授の職を追われ、その後も弾圧に屈せず伝道を続けた。日本のキリスト教は「日本基督教団」によってではなく、無教会主義の個人の功績によって何とか現代まで引き継がれている。日本基督教団はそれをまるで教団の功績であるかのように装いながら存続しているのが現状である。
ただし、実際に日本にキリスト教が入ってきたのは、かなり古い過去にさかのぼる。教科書では、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝道したことになっているが、イエズス会が伝道した神は「デウス(ゼウス)」であった。ゼウスは聖書のダニエル書や主イエスが「荒らす憎むべきもの」とした偶像崇拝の権化である。イエズス会によって偶像崇拝を信じ込まされてキリシタンになった信者たちは、偶像で造られた「踏み絵」を踏むことができず、十字架刑に処された。日本のキリスト教会が、この迫害を美談にするのはお門違いである。
イエズス会よりも以前に、カトリックから異端として迫害され、日本に入ってきていたキリスト教が「景教」である。平安時代には既に中国(唐)で大流行し、日本にも平安時代以前に入ってきていた。さらに言えば、日本建国の神話時代、日本という国は渡来人によって建国された。その後、革命政権が日本を仏教国にしたが、神道と仏教は共存しながら明治維新まで続いた。そして明治維新で再び革命がなされた。