馬、獣、竜、大淫婦バビロンの幻の解釈


 「フラムの子ら」は、アメリカの首府ワシントンを彼らのシンボルに基づいて建設した。ホワイトハウスを頂点にした五角形の星を逆さまにした模様は「落ちた明星」を表している(これは米軍の勲章にもなっている)。彼らは自分たちの組織図を示すピラミッドを「アメリカの国璽」とし、1ドル紙幣の裏に印刷した。
 アメリカ・フリーメーソンの祭司長アルバート・パイクは、1871年にイタリア・フリーメーソンのジュゼッペ・マッチーノに「世界を統一するために今後3回の世界大戦が必要だ。1回目はロシアを倒すために。2回目はドイツを倒すために。3回目はイスラム教とユダヤ・キリスト教を倒すために」との書簡を送った。その通りに2回の世界大戦が起こり、今また3回目が起こされつつある。かつてルーズベルトは「世界に偶然なんてない、すべては計画されているのだ」と語ったが、彼らは世界を自分たちの思う通りにできると考えている(しかし神のご計画がそれを上回っていることを彼らは知らない)。
 ちなみに、アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュが大統領就任の際に宣誓したのは、キリスト教の聖書ではなくフリーメーソン所有の彼らの聖書であった。このことは2001年1月AP通信によってニュース配信された。このフリーメーソンの聖書(234年前のもので4・5キロもある大きな聖書)がアメリカ大統領の就任式に使われるのは史上6度目で、最初は初代ワシントンである。6人の中には父ブッシュ、アイゼンハワー、カーターらがいる。他にも多くのアメリカ大統領がフリーメーソンであるが、中でも32代フランクリン・ルーズベルトと33代トルーマンは、現イスラエル建国に強く関与している。2人は共に『スコットランド儀礼フリーメーソン団』の団員である。
 彼らは、「世界を統一すれば悲惨な戦争も貧富の格差もなくなって、人類が待ち望んだ平和と自由と平等な世界が訪れる」という幻想を人々に喧伝し、彼らの真の目的である「バベルの塔がある町の再建による人類支配」の実現に向かって着実に計画を進めている。主イエスが言われた、かつてなく、これからもないような人類最大の惨劇は、世界が統一された後に、統一政府がその強大な力を内部に向けたときに起こる。ナチス・ドイツのユダヤ人狩りや、共産主義国の知識者狩り、中世カトリックの異端狩りが示してきたように。
 バベルの塔のある町を築こうとしていたニムロデは、天まで届く塔のある町を建てて名を上げようとした。「名を上げる」とは、神の名の上に、自分の名を置くという意味で、それは自分を神よりも高い神にするということである。つまり「フラムの子ら」の目的は明白である。彼らはキリスト教を利用して、中断されたバベルの塔のある町を再建し、言葉を一つにし、遂には「立ってはならない所」に立って、「自分こそが神だ」と宣言するのだ、と聖書は教えている。

 この計画に最も協力しているのが「ユダヤ人と称する偽ユダヤ人(実はティルス人)」である。ソロモンの時代に神殿建築に携わったティルス人フラムを祖とする「フラムの子ら」の最高位の構成員は、ほとんどがティルス人である。「フラムの子ら」の中には他の民族(異邦人)も多数入っているが、実権は常にティルス人が握っており、「フラムの子ら」の中には特別にティルス人のためだけの組織「ブナイブリス」が設置されている。
 ヨハネ黙示録に、「海の中から上って来る第1の獣」と「地中から上って来る第2の獣」のことが記されている。

「わたしはまた、1匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには10本の角と7つの頭があった。それらの角には10の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。 竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。『だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。』 この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、42か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを 冒涜した。獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。地上に住む者で、天地創造の時から、 屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。耳ある者は、聞け。捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」(ヨハネ黙13・1〜10)


「わたしはまた、もう1匹の獣が地中から上って来るのを見た。この獣は、子羊の角に似た2本の角があって、竜のようにものを言っていた。この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。更に、先の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、また、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。第2の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額(ひたい)に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は666(六百六十六)である。」(ヨハネ黙13・11〜18)

 ヨハネ黙示録の解釈については、様々な解釈が世に出回っているが、いまだ真の解釈が出されたことはない。それどころか、そのほとんどが、とんでもない解釈である。
 ヨハネ黙示録は世の終わりまで、それが解かれないように封印されている。そのことはヨハネ黙示録の中にも記されている。ヨハネ黙示録は、世の終わりのときの直前に、羊によって聖書(巻物)の封印が解かれ、羊が選んだ預言者にその奥義が明かされるのである。
 その解釈は、羊が手にしている巻物(律法と預言者)が解明されることによって明らかにされる。
 それゆえ、律法と預言書を熟知していなければ、解明された内容も理解することができない。
 たとえば、「右手か額に刻印を押させた」も、出エジプト記の「この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、」を知らなければ理解できないし、「666」も歴代誌と列王記にソロモンとティルスのフラムの名と共に出てくる数字である。ヨハネ黙示録に登場する4頭の馬の幻の意味も、預言書によって明らかになる。

 旧約聖書に登場するダニエルはかつて、メシヤ(イエス)登場以前に世を支配する4つの獣の幻を見た。同じ時期の預言者エゼキエルは、それを4体のケルビム(御使い=天使)の幻の、顔の向きで見た。同じく預言者ゼカリヤは、同じものを4頭の馬で見た。これらの預言者たちが見せられた幻は、旧約時代の「終わりの日」に登場する獣と主イエス登場にまつわる幻であった。
 預言者たちは、「終わりの日」に主イエスが現れるときまでに起こることを、その同じ内容を別々の幻で見せられたのである。なぜ主なる神は、預言者たちにわざわざ同じことを別々の幻で見せたのか。それは、そのことが「預言者(預言書)」という巻物となることを前提としており、真に神を求める者だけがその意味を理解し、それ以外の者がその意味を理解して救われることがないように、封印されているのである。
 こう言うと、主イエスが人類の罪を赦するために自ら十字架につかれたというパウロの教えを信じているクリスチャンは仰天するかも知れない。しかし聖書をよく読めば明白である。それは主イエスご自身が言われていることなのだ。

「あなたがた(12使徒)には神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」(マルコ4・11〜12)。

 かつての預言者たちが見せられた幻も、一種の「たとえ」であり、「外の人々」には理解することができない。それが理解できないのは、目が開かれていない(目覚めていない)からで、目が開かれていないのは心に灯がないからである。
 理解できないならば立ち帰って赦されることがない。つまり、主イエスの十字架を信じれば赦されるというのは、主イエスのことも預言者の幻も理解できない者による作り話にすぎないということになる。主イエスは、信じ求める者たちの目を開き、目覚めさせて、神に立ち帰らせて赦されるようにするためにこそ、世に来られたのだから。
 主イエスは、神の国の秘密が打ち明けられている弟子たちにさえ、たびたび常に目覚めて(目を開いて)いるように、と命じておられる。目が開かれて目覚めていないならば、立ち帰って赦されることがないからである。クリスチャンを自称する神父や牧師も、聖書に記されている幻やたとえが理解できないならば、目覚めていないのであり、立ち帰って赦されることはないことになる。
 真に求める人は、たとえや幻を理解しようとして、あちこち探し、求め、そこに書かれていることを行い、自らを目が開かれるにふさわしい者にしようと努める。自らを置いておいて、ただ主イエスを信じてすがれば救われるなどということは、ない。
 このHPも、見るには見るが、認めず、聞くには聞くが理解できない人は、立ち帰って赦されることがないようになるために、理解できない。真に求める人は、このHPは主によって目を開かれるための重要な鍵であることに気付くはずである。聖書の封印を解く鍵が記されているからである。
 「預言者(預言書」に記されている幻を、この鍵に相応させることで、主イエスが現れるまでに世にいかなることが起こって主イエスが何のために、いつ世に来られたのかを悟ることができる。そして、さらにはそのことをヨハネ黙示録の幻に相応させることによって、主イエス以降の時代、つまり次の「終わりの日」までに何が何のために起こるのかということが分かり、「終わりの日」に起こることの真相を解き明かすことができるのである。

 たとえば、旧約時代の預言者たちが見た幻が、主イエスが現れるまでに世を支配する4つの獣を示しているように、ヨハネ黙示録に登場する4頭の馬(馬は戦車を示す)は、主イエス登場以降の時代、つまり次の「終わりの日」までに戦争に勝利して世を支配する4つのものを示している。
 ここに登場する4頭の馬は、かつて預言者ゼカリヤが見た馬と同じものであるが、登場する馬の色の順番が異なっている。そこに意味がある。そして、その順番を決めているのがエゼキエルが幻で見た4つのケルビムなのである。エゼキエルが見たケルビムの上には主なる神が座しておられる。主なる神がケルビムを通して、獣たちが世を入れ替わり支配することを許しているのであり、その獣たちが世を支配することが許されている理由は、神の民(主の民)が神に立ち帰って創造本来の(アダムとエバの堕落前の)世界を取り戻すためである。
 世の支配者たちは、彼ら自身の力で世を支配していると思いこんでいるが実はそうではなく、歴史上に起こるすべてのことは主なる神のご計画のもとに、主なる神の手の上で起きている事象に過ぎない。そうとは知らず世の権力者たちは、自分たちの思い通りに計画を進めているつもりになのである。サタンもしかり。
 さて、エゼキエルが見た4つのケルビムは、固定的な姿ではなく、ケルビムは常に回転しながら進んでいる。エゼキエルが見た4つのケルビムの位置関係や、向いている顔が示しているものは、あくまでもイエス様登場までに世を支配するものたちの姿である。エゼキエルが見せられたケルビムと、ゼカリヤが見せられた馬と、ダニエルが見せられた獣を相応させると、次のようになる。
 
 
エゼキエルのケルビム第1の顔(ケルビム)はゼカリヤ第1の赤毛馬に相応し、またダニエル第1の「有翼の獅子(バビロニア)」に相応している。
 エゼキエル第2の顔(人間)は、ゼカリヤ第2の黒毛馬に相応し、またダニエル第2の「3本の肋骨をくわえた熊(メディア・ペルシャ)」に相応している。
 エゼキエル第3の顔(獅子)は、ゼカリヤ第3の白毛馬およびダニエル第3の「4つの翼と4つの頭をもつ豹(ギリシャ)」に相応している。
 エゼキエル第4の顔(鷲)は、ゼカリヤの第4のまだら馬およびダニエルの第4の「10本の角をもつ獣に相応している。第4の獣は聖者らと闘って勝つが、やがて「日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたと記されている(ダニエル書7章)。


  主イエス登場以降、「終わりの日」までに起こることも、これとよく似ているが少しだけ異なっている。ゼカリヤが見た馬の色とは、順番が異なっているのだ。その順番に当てはめると、主イエス以降、まず世を支配するのは「白い馬に乗る者」である。次いで「赤い馬に乗る者」が世を支配し、3番目に「黒い馬に乗る者」が世を支配し、最後に「青白い(まだらの)馬に乗る者」が世を支配して、それから「終わりの日」に至る。
 つまり、ヨハネ黙示録に記されている4つの馬(第1の封印〜第4の封印)の解釈は、こうである。

 
第1の白い馬に乗る者は、旧約時代の預言者ゼカリヤが見た幻では主イエスの登場前に現れるマケドニア(ギリシャ)を意味していた。マケドニア(ギリシャ)は4つに分割された後、エルサレムと神殿を占領した。主イエス以後に現れるヨハネ黙示録の白い馬に乗る者も、エルサレムと神殿を占領する。白い馬に乗る「弓を持つ者」については、ここでは明かさない。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようとして出て行く。(黙示録21章の白い馬に乗る方は弓は持っておらず、鉄の杖を持ち、口から鋭い剣が出ている。混同しないよう注意)
 その一方で、西洋(聖書では北側)ではパウロのキリスト教ローマがヘレニズム文明によって偶像崇拝を復興させる(ヘレニズムはギリシャの女神ヘレナ崇拝に代表される偶像文明)。パウロのキリスト教ローマは、諸国を植民地支配し(大航海時代)、世界中から金銀や産物を集め、そこから分派したプロテスタントはアメリカ大陸を力で支配。英国の産業革命も相まって、世界中の人々が産業の奴隷となり、金と産業経済に人が支配されるようになる。

 
第2の赤い馬に乗る者は、ゼカリヤが見た幻ではバビロニアであった。ヨハネの黙示でも、第1の者の次に現れるのが、かつてのバビロニアと同じように、統治者である英雄が法によって人を支配し、人が造った法と統治者(英雄)による偶像崇拝の統治=民主主義と社会(共産)主義社会の登場を意味している。彼らは革命の名のもとに武力で支配者層を打ち倒し、人を支配する。その象徴は労働を意味する牛であり、労働こそが価値とされ、「平等」の美名のもと実際には人が牛と同等の価値しか有さない奴隷労働社会が出現する。

 
第3の黒い馬は、ゼカリヤが見た幻ではアラブの帝国メディア・ペルシャであった。ヨハネの黙示でも、第2の者の次にかつてのメディア・ペルシャが行った経済交流と同じように、アラブ諸国が石油経済によって皮肉にも西側(聖書では北側)産業の鍵を握るようになることを意味する。西側諸国の産業革命以降、石油は不可欠のエネルギー源となるが、皮肉にもその石油が、不毛の砂漠だったイスラム教アラブ諸国から産出することで、イスラム教アラブ諸国は石油1コイニクス(約1.1リットル)で小麦1デナリオン分・大麦3デナリオン分を得ることができ、オリーブ油・ぶどう酒も十分に得るように豊かになる。ちなみに、麦・オリーブ油・ぶどう酒はイスラエルの象徴でもあり、アラブ諸国はイスラエルの命運を左右するようになり、石油経済を握ったことでキリスト教社会とも拮抗する。

 
第4のまだらの馬は、ゼカリヤが見た幻ではローマであった。ヨハネの黙示では、「終わりの日」の最後に登場する「復活ローマ」を意味する。この「復活ローマ」は、かつてのローマの復活であると同時に、主イエス以前の4匹の獣+主イエス以降の3匹の獣を足した「7頭の獣の集大成」でもあり、それをつなぎ合わせた姿になぞらえたのが竜である。そして、この竜がエデンの蛇であり、世を支配してきたのである。蛇は自分の最後が近づいているのを知っているので、全力を注いで、かつてなく今後もないような強力な方法で人間を支配する。しかし、それは彼が支配する世の終わりが近いことを意味する。この馬はヨハネ黙示録13章の、第1の獣と第2の獣のことでもある。第1の獣は10本の角と7つの頭をもつ第1の獣は豹(ギリシャ)に似ており、足は熊(メディアとペルシャ)の足のようで、口は獅子(バビロニア)の口のようで、「まだら」なのは合体しているからである。竜(蛇)はこの獣に自分の力と王座と大きな権威とを与える。その頭の1つは剣によって傷つけられて死んだと思われるが、その致命的な傷も治ってしまい、人々は服従する。さらに第2の獣(子羊の角に似た2本の角がある)が地中から上って来る。注意すべきは、第2の獣が刻印する数字は第1の獣の名、あるいはその名の数字である。それは人間を指していて、その数字は666である

 
これらすべては主なる神のご計画によって、サタンとそれに追随する人間たちが支配してきた世の終わりを来らせ、創造本来の世を来らせるために起こるべくして起こる必然である。サタンと世に従う者は、終わりの日の裁きを免れない。主なる神に従う者は、苦難の時を終えて喜びを見るようになる。

 ヨハネ黙示録17章に記されている「7つの頭と10本の角を持つ獣=竜」は、かつてイエス様登場以前に世を支配した4つ獣と、主イエス以降に「終わりの日」まで世を支配する4つの獣がつながったものである。その中の1つは「以前いて、今はいない獣は、第8のもので、またそれは先の7人の中の1人」(ヨハネ黙17・11)なので、合計7つになる。この7つ獣らの支配者は一貫してサタン=竜で、それが7つの頭をもつ竜となっているのである。
 この竜は、女(大淫婦バビロン)を乗せている(淫婦についてはイザヤ書1章・23章・57章、エレミヤ書3章、エゼキエル書16章・23章、ホセア書1〜2章、ゼカリア書5章、他を参照)。主イエス以降、女はキリストの花嫁たるキリスト教会・キリスト教国家・キリスト教徒の象徴である。そのキリスト教会が神に背き、大淫婦バビロンとなる。だからこそ、この幻を見せられたヨハネは大いに驚いた。驚くヨハネに、天使がその秘められた意味をこう明かしている。

「この女を見て、わたしは大いに驚いた。すると、天使がわたしにこう言った。『なぜ驚くのか。わたしは、この女の秘められた意味と、女を乗せた獣、7つの頭と10本の角がある獣の秘められた意味とを知らせよう。』 (ヨハネ黙17・6〜7)

 本来はキリストの花嫁たるキリスト教会が、大淫婦バビロンになることに、ヨハネは「非常に驚いた」のである。 この大淫婦バビロンの秘められた意味を解く鍵について、ヨハネ黙示録18章11〜14節にこう書かれている。

「地上の商人たちは、彼女のために泣き悲しむ。もはやだれも彼らの商品を買う者がないからである。その商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻の布、紫の布、絹地、赤い布、あらゆる香ばしい木と象牙細工、そして、高価な木材や、青銅、鉄、大理石などでできたあらゆる器、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、小麦、家畜、羊、馬、馬車、奴隷、人間である。」

 表面的には、女が貿易で富を蓄えているように書かれている。しかし、ここに書かれているのはエゼキエル書26〜28章のティルスに関する記事の引用であり、ティルスとはエデンにいた蛇である(エゼキエル26章〜28章)。エゼキエル書は、その正体をソロモンがティルスのフラムと連合して造営した神殿によって示している。ティルスのフラムは「フラムの子ら」の始祖であり、その背後にいるのはエデンにいた蛇なのである。
 かつてニムロデが諸国民を連合させて神に反逆する「塔のある町バベル」を建設したのと同じように、「大淫婦バビロン」であるキリスト教会と諸宗教の連合は、終わりの日の前に世の支配者の上にまたがり、多くの水(あらゆる教え)の上に座る。終わりの日の前には、ソロモン神殿(実はフラムの神殿)が再建され、かつてソロモンとフラムがメギドの丘(ハルマゲドン)に666キカルの金(税)を集めたように、「666の獣」が世界の金(および税)を統括して世界と人々を支配する。世の人々は彼に従う。
 「バベルの塔」とよく言われているものは、正しくは聖書の創世記に記されている「塔のある町バベル」である。「塔のある町バベル」は、ヴァチカンをはじめとして、フランスやアメリカ、世界中の至るところに建設されている。
 さて、「大淫婦バビロン」の記述の前に、ヨハネ黙示録は、天使が偶像崇拝する人々を攻撃し、それによって人間の1/3が殺されるが、それでも人々は悔い改めないと記載している。

「この三つの災いで人間の三分の一が殺された。馬の力は口と尾にあって、尾は蛇に似て頭があり、この頭で害を加えるのである。これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。また彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。」(ヨハネ黙9・18〜21)

 これはキリスト教徒や諸宗教を信じる者らが自分の手で造ったものについて悔い改めず、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめないことを示している。キリスト教や諸宗教の偶像崇拝は、言い訳の仕様がない不信行為であり、みだらな姦淫にほかならない。多くの人が殺されるのを見てもなお偶像崇拝を悔い改めないこの者らが、連合して「大淫婦バビロン」となり、それに迎合する人々がサタンにとらわれる人々となるのである。

 では、キリスト教徒と諸宗教の連合はいつ起こるのか。
 1962年の「第2ヴァチカン公会議」は、ローマ教皇ヨハネス23世(在位1958〜1963年)による「開かれた教会作り」という主旨のもと、3年にわたって開かれ、全世界のあらゆる宗教指導者の中から計2865人の高位聖職者が集まった。そして1964年、「フラムの子」らの指導のもと、ヴァチカンは次の「3大刷新」を決定した。

@エキュメニカル(キリスト教統一主義運動)の推進による全キリスト者の再一致統合。

A信教の自由の名のもとにキリスト教以外のヒンズー教・イスラム教・仏教などを基本的に神の啓示として認める方向で連帯して唯一絶対の一神教を修正する。

 B諸国のあらゆる現代戦争に無条件に反対し軍備撤廃を強力に要求して世界の恒久的平和を実現するための制度的な措置として『世界共同体』を形成する。

 このヴァチカン公会議はパウロ6世によって継承され、彼はエルサレムのオリーブの丘でギリシャ正教の総大司教アテナゴラスと歴史的な和解を行い、900年にわたった教会分裂に終止符を打った。また東方教会とプロテスタントは世界教会協議会(WCC)をもち、エキュメニカルを始めた。このWCCの参加教団は約200教団、約6億人の信者を有している。プロテスタントはすでにフリーメーソンに支配されており、「フラムの子ら」は連合(バビロン)=エキュメニカルを実現した。そして、この人々は世界各地でテロ行為にあって殺されている。その攻撃はますます激しくなるだろう。それでも偶像崇拝を悔い改めない人々は、やがてサタンにとらわれていく。その末路は第2の死である(ヨハネ黙20・13〜15)。
 教会に属する人たちは、彼女(大淫婦バビロン)の罪に預からないように、そこから逃げ出さなければならない。もはや残された「とき」は少ない。主イエスは言われた。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(マタイ7・13〜14)