「終わりの日」の秘儀


 聖書に預言されている「終わりの日」は、人類の終わりの日、地球の終わりの日のことだと世間一般でも、宗教界でも解釈され、古くから世間を騒がせてきた。しかし、聖書に預言されている「終わりの日」とは、「世」の終わりの日のことである。
 では、「世」とはいったい何か。「世」とはサタンが支配する人間たちが形成してきた「世間」や「社会」や「文明」のことである。 「世」は、人間が作っているものだが、それはサタンによって支配されたアダムとエバの子孫たちが神に背いて作ったものだ。「終わりの日」とは、その「サタン支配の世」が終わる日なのである。ゆえに、その日は、永らく迫害されて苦難を歩んできた神に従う真の主の民にとって、喜びの日なのである。

 人間は、サタンに唆されて神に禁じられた「善悪を知る知識の木」の実を食べた。そして互いに自らを善として相手を悪とし、争い、殺し、支配して、世のあらゆる苦悩を生み出してきた。そして、戦争やあらゆる苦悩を「世」から無くしたいと希求してきた。ところが、善を希求している人間こそが戦争を起こし、あらゆる不幸を生み出し、自らそれに苦しめられているのである。
神は、人間とあらゆる生命が幸福に生活できるすべてを教えてくださっている。にもかかわらず人間は神に背き、「世」から不幸は無くならず、求める本来の幸せは実現してこなかった。もし、それを可能にする道があるとすれば、人間が無くなるか、人間が変わるか、どちらかである。サタンに支配されている人間が、神の子たる本来の人間に変わらなければ、不幸の連鎖が終わることはない。

 では、どのようにして「世」は終わるのか。キリスト教では、「世」が終わるときには、イエス・キリストの十字架の恩恵によってクリスチャンが救済されて、クリスチャン以外の人間は滅亡すると考える。しかし、イエス・キリストの十字架の恩恵によって一方的に罪が贖われるということで、人間がサタンを超えたことになるだろうか。イエス・キリストは、「世」の間違いを正し、律法の正しい解釈を教えて命を吹き込み、ご自身が選んだ弟子たちをはじめとして人類が罪・悪・サタンと闘って勝利するすべを教えられた。
 サタンの子として生まれてきている人間が、自力だけで罪・悪・サタンに勝利することは不可能である。しかし罪・悪・サタンに勝利しない者を、イエス・キリストが救うことはない。
 ところが、パウロはこう言っている。

「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気付きます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」(ローマの信徒への手紙7・12〜24)

 パウロは自分の心を律法に従う善なるものとし、自分の体を罪に支配されている悪なるものとしている。しかし、イエス・キリストは、こう言っている。

「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7・20〜22、マタイ15・18〜20)

 人間の肉そのものには、善も悪もない。イエス・キリストの教えは、パウロと逆である。肉は、それ自体で勝手に善を行ったり悪を行ったりしない。人間の心が、その肉に善や悪を行わせるのだ。
 肉が罪を行うのは、心が肉にそれを行わせているのにほかならない。肉が勝手に罪を行うことはない。では、心は清めることができるのか。清めることができる。そうでなければ贖いは成立しない。ただし、それができるのは主のみである。主が清めてくださらなければ、人間の心は清まらない。そして、心を清めようとしない人間を、主が清めてくださることはない。

 ヤコブ書(ヤコブの手紙)は、世の友となることは神の敵になることだと教えている。しかし、ローマに迫害されたキリスト教は、そのローマ帝国の邪教を受け入れて一体になり、世の権力を手にする道を選んだ。
 主イエスはどうだったろうか。主イエスは、サタンが自分にひれ伏して拝むなら全世界を与えると言ってもそれを拒否し、ただ神のみに仕えた。しかし教会はローマ皇帝と偶像を伏し拝んで「世」の権力を得て、それを「信仰の勝利」だとし、得た権力を背景に世に自らの教えを広め、それに反対する真の聖徒らを迫害し、殺戮し、滅ぼしていった。

 だが神と主イエスは生きて働いておられる。教会が世の権力で真の聖徒らをどれほど殲滅しようとも、隠された真実を明らかにされる。サタンとキリスト教会が「世」をわがものにしたとしても、その「世」は必ず終わりの日を迎える。神が、神に従う人たちを救うために。
 真のキリスト者よ、教会から離れ去り、教会の罪に巻き込まれないようにせよ。聖書にこう書かれているからである。

「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。彼女がしたとおりに、彼女に仕返しせよ、彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。彼女が注いだ杯(さかずき)に、その倍も注いでやれ。彼女がおごり高ぶって、ぜいたくに暮らしていたのと、同じだけの苦しみと悲しみを、彼女に与えよ。彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。』 それゆえ、1日のうちに、さまざまな災いが、死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。また、彼女は火で焼かれる。彼女を裁く神は、力ある王だからである。」(ヨハネの黙示録18・4〜8)

 神は、預言者エレミヤを通して、聖書は完全な啓示の書などではなく偽りも記載されていることを教えてくださっている。ペテロやヤコブやヨハネが書いているように、教会にも初期から偽教師の偽りの教えが入り込み、偽りの教えが新約聖書にも編纂されている。その偽りを見抜かなければならない。目覚めていなければ、贖われることも救われることもない。
 主イエスご自身が明らかにされている「律法と預言者(預言書)」(ヤコブは「自由な律法」と呼んでいる)に従うならば、主イエス自らが贖ってくださる。「終わりの日」は近い。洗礼者ヨハネが主イエスを神の子と証ししながらも、自分自身は主イエスに従うことができなかったように(洗礼者ヨハネが主イエスに従っていれば、洗礼者ヨハネの弟子や信徒やイスラエルの民は主イエスに従っていただろう)、教会の指導者は真実を知っても、自分の立場や名声を捨てて真実に従うことは難しいだろう。しかし、それをなしたならば、自身のみならず自身の教会の信徒たちも神の栄光の列に加わるであろう。そのこともヨハネの黙示録には記されている。記されていることは、必ず成就する。

 神は、わが子である人間を愛するがゆえに、「世」を終わらせる。「終わりの日」は、神が永遠の愛を打ち立て、創造本来の世界を実現させる「はじめ(アルファ)であり、おわり(オメガ)」である。
 こうして、神の奥義が、成就する。