主イエスの食物規定


 ローマ教会が、ユダヤ人イエスの教えを、ユダヤから段階的に切り離していく要因となった主たるものは、律法の廃棄である。中でも、安息日の廃棄、食物規定の廃棄、マリア崇拝を含む偶像崇拝の容認は、律法廃棄の3大要因と言える。
 主イエスが安息日を破るどころか、安息日を正しく守っていたことについては、このHPの別の項目「人の子は安息日の主」に明らかにした。また、主イエスの言葉のどこにも偶像崇拝やマリア崇拝を容認する根拠はないので、偶像崇拝・マリア崇拝そのものが、偶像崇拝を禁じている神への反逆行為と言っていい。ローマ教会がいかにして偶像崇拝を取り入るようになったかについては「カトリックが偶像崇拝を認めた経緯」を参照されたい。

 ここでは、主イエスが律法に定められている食物規定を廃棄されたのかどうかを、明らかにしたい。
 キリスト教神学者らは、マルコ福音書7章の記述をもって、主イエスが律法の食物規定を廃棄されたのものとして解釈してきた。現代でもそれは変わらない。実際、アメリカを代表する3つの聖書註解書(ワード、アンカー、ヘルメイア)のいずれも、この部分を主イエスが律法の食物規定を廃したとの解釈で一致している。

「マルコ福音書7章19節のイエスの解釈はきわめて大きな意味を持つ一歩前進であり、少なくともイエスに従う者たちは食物規定を遵守する必要・義務はないということを含意している。」(『ヘルメイア』 A・Y・コリンズ註解)
 
「7章15のイエスの言葉は、人の食べる物に言及している7・18〜19に照らして読めば、いかなる食物もレビ記(11〜15章)の法規が禁じている食物でさえも、上の前では人間をけがし得ないということを言わんとしている。品質的にイエスは『すべての食物をきよいものとする』 」(『ワード』 ロバート・A・グウェリック註解)

「マルコ福音書7章のこの箇所(19節)でのイエスによる食物の浄不浄の区別の妥当性の否定とすべての食物を食べても構わないという宣言を受け容れる者は誰でも直ちに、人々をたぶらかしその心を神から、紙がモーセに与えら聖なる誡めから引き離そうとする者であると決めつけられたであろう」
(『アンカー』 J・マーカス註解)

 しかし、主イエスは律法の食物規定を否定しているのだろうか。そのマルコ福音書7章の記述によれば、主イエスは律法の食物規定を廃棄しているどころか、それを正しく守り、律法の食物規定を擁護しているのである。マルコ福音書のその部分を引用しておこう。

 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。−ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。−そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
 『この民は口先ではわたしを敬うが、
 その心はわたしから遠く離れている。
 人間の戒めを教えとしておしえ、
 みなしくわたしをあがめている。』
 あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です″と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである。」
(マルコ福音書7・1〜23)

 あらためて読んで気づいた人もいるかも知れない。そう、主イエスは律法の食物規定を否定しているのではなく、ファリサイ派や律法学者たちが受け継いで頑なに順守している「言い伝え」で神の言葉を無にしていることを非難しているのである。
 では、律法の食物規定とは、どのようなものであろう。食物の浄・不浄の規定は、それを人が食べてもいいか、食べてはいけないかを意味する。食べるのを禁じられているのは、豚やウサギなどの「ひづめが反芻しない動物」や猛禽類、ひれ、うろこのない海の生物である。また人が動物を食べるに当たっては、動物にとって苦痛のない方法で屠(ほふ)らなければならず、動物の子の肉をその親の乳と混ぜて調理してはならない。なお、人が食べるのに不浄とされる食物規定は、それを扱う衣や、それを調理する鍋釜とは何の関わりもない。浄い食物が接触や処理法によって食べることを禁じられる場合には、別の規定がある。男あるいは女の体から命である血液や精液の流出がある人に触れた場合や、皮膚病などによる伝染病の可能性がある場合などである。
 ところが、当時のファリサイ派と、時の権力者であったヘロデ派に属する律法学者たちは、彼ら独自の伝統的な「言い伝え」をそれに加えて、人々に強制していたのである。たとえば、手がパンを汚さないように、パンを食べる前に手に水を注ぐ儀礼的な洗手の慣習を設けたのである。律法の食物規定には、そのような規定はない。キリスト教会の神学者たちは、そこが正しく見えていないのである。

 マルコ福音書に、「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て」とあるのは、彼らがヘロデのもとで自らの地位を確立し、その「言い伝え」をエルサレムだけでなく地方に根付かせるために、イスラエル全土に目を光らせていたことを示している。そして彼らは、自分たちの「言い伝え」に反することを人々に教えているらしいイエスのことを聞きつけて、イエスのもとに来たのである。その彼らにイエスが語ったのは律法の否定ではなく、彼らが自分たちの「言い伝え」を盾に「洗わない手で食事をする」イエスの弟子たちをとがめたことに対して、律法を掲げてイエスは抗議したのである。主イエスは、彼らが律法を拡大解釈した自分たちの「言い伝え」を人々に強制し、それによって神の言葉(律法)を無にしている偽善者である、と指摘したのである。主イエスは、人間の体(腹)の中に入る食物は人の体を汚さないと主張することで、それを明らかにした。
 人の体は不浄な食物の摂取によってではなく、人の体から外へ出てくる様々なものによってのみ不浄となる、という
主イエスの発言は、律法に忠実な発言なのである。前述のように、律法によれば人を不浄にするのは人の体の中に入るものではなく、血液、精液、伝染病による体液などの流出のみである。律法によれば、人の体を不浄にする唯一の食物は「腐った肉」であり、禁じられている食物を食べたり不浄となった清い食物を食べることによって人が汚れることはない。ユダヤのタルムードによれば、食前の洗手という慣例を新たに考案したのは伝説上のファリサイ派およびラビたちで
あり、「ファリサイ派の法規は律法の拡張である」としている。主イエスが強く抗議たのは、彼らがイエスの弟子たちに強制した彼ら独自の「言い伝え」に対してであって、律法の食物規定に対してではないのである。
 ここでの主イエスの主張は、彼らが自分たち独自の「言い伝え」によって律法の規定を変えてしまって、神の言葉を無にしていることに対してなのである。律法によれば、人の体から出てくるのみが汚すのであり、体の中に入る食物は人を汚さない。したがって、ファリサイ派がもし食物そのものが人を汚すと主張するならば、それこそが律法に反することなのである。マルコ福音書のこの箇所を締めくくる「こうして、すべての食べ物は清められる。」という主イエスの言葉は、「こうして、イエスはすべての食物を食べることを許した」という意味ではなく、「こうして、イエスはすべての食物をきよめた」という意味であり、イエスが問題にしたのは律法の食物規定ではなくてファリサイ派が独自に解釈を広げた汚れた食物に対する厳格な規定に対してだったのである。イエスはここで、律法で神が禁じている食物を食べることを正当化しているのではなく、律法と縁もゆかりもない彼らの「言い伝え」=「手を洗わないでパンを食べること」を許しているのである。

 注意深くマルコ福音書を読む人は、これとは別の「あること」に気付くはずである。実は多くの聖書には、マルコ福音書7章から16節が欠落している。聖書をお持ちならば、ご自身の聖書を開いて確認することが可能だ。マルコ福音書7章の中に、16節だけがかけているはずである。その16節は、「後代の付加だから」という理由で省かれているのだが、実はそうではない。16節が、この箇所全体を正しく理解させるためのカギとなっており、それを正しく理解させたくない誰かが意図的に16節を省いているのである。
 16節にはこう書かれている。「耳のあるものは聞くがよい」。この言葉は何を意味するか。ここでイエスが語ったことは
、耳があるものにしか理解できない深い意味が含まれている「たとえ」でもあるのであって、言葉の表面上の意味しか理解できない者には理解できないことを意味しているのである。だからこそ、弟子たちが食物規定については深い意味があることを理解できなかったことに対して、主イエスは叱ったのである。
 弟子たちは主イエスに尋ねた。この「たとえ」で何を教えようとされたのですか、と。それに対して主イエスが答えられたのは、律法の食物規定が単に物質的なことだけを教えているのではなく、それは人としての正しい倫理道徳や心のあるべき姿をも教えているのであって、それはどちらかだけを教えているのではなく、一致しているものなのだ、ということを教えているのである。
 だとすれば、人が食べるべきではない食物には、物質的な意味のほかにも内的な意味(倫理道徳的な意味や霊的な意味)があるのであり、たとえばそれらは清い動物にとっての食べ物(エサ)として神が作られたものであって、それを人が食べてしまうと清い動物が減少してしまうことになり、それは結果的に人が食べるものを減少させ、人の生存を危うくする可能性があることや、人が食べると毒となるもの、病の発生源となるもの、といった物質的な意味があるとも考えられる。そして内的には、律法が人の外から中に入るものではなく人の中から外へ出るもののみを不浄としているのは、人の心の中から諸々の悪しき思いが出て、それこそが人を汚すのだということを教えているのだ、と主イエスは律法の本来の意味を明らかにされているのである。
 それは律法を否定しているのではなく、神の言葉が単に文字の上っ面の表面的な意味のみを教えているのではなく、本来的に霊的な意味を含んでいることを教えているのであり、そのことは霊的な耳が開いている者だけが悟ることができるということなのである。
 主イエスは、この箇所だけでなく、ありとあらゆる機会に、律法が表面的な意味のみならず霊的・心的な意味を含有していることを教えている。しかし、罪を犯して目が閉じ耳が開いていない人には、それが理解できない。それゆえ主イエスは「たとえ」を示し、耳があるものだけがそれを理解できる語り方をしている。主イエスは、ファリサイ派や律法学者らによる律法の解釈は、神の言葉の本質を理解しないで文字の上っ面だけを無用に拡大解釈しているだけだと指摘したのであり、それは見せかけの偽善にすぎず、かえって律法の神の言葉を無にしていると切り捨てたのである。

 さらに言えば、律法のみならず、言葉というものは元来そういうものなのである。特に神の言葉、イエスの言葉においては。人間は堕落し、罪を犯して神から離反しているために、言葉が本来有している霊的・内的な意味を理解することができず、本当の善悪が判らなくなっていることを、主イエスは教えている。そうであるならば、人は罪を犯し神から離反している身で、どれほど学問を学んだとしても、意味あることは何一つとして理解することができない。人が、何か意味あることを知りたいと欲するならば、また神の言葉、イエスの言葉の意味を真に理解したいと欲するならば、まずは神に従って生きることなのであり、それによって目と耳を開くことが先決なのである。